FA権を行使せずヤクルト残留を選んだ山田哲人 (c)朝日新聞社
FA権を行使せずヤクルト残留を選んだ山田哲人 (c)朝日新聞社
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 その時、ヤクルトの小川淳司監督(現GM)は、3度目の壇上で考えを巡らせていた。目の前に置かれた半透明の抽選箱に入れられた封筒は2つ。そのどちらかに「交渉権確定」と印字された“当たりくじ”が入っている。

 2010年10月28日、監督代行から昇格して臨む初めてのドラフト会議。その晴れの舞台で、1巡目に入札した早稲田大・斎藤佑樹(現日本ハム)、八戸大(現八戸学院大)・塩見貴洋(現楽天)を相次いで抽選で外し、外れ外れの入札でもオリックスと競合。最終的に「向かって左側の封筒を引こう」と決めたものの、先にくじを引いたオリックスの岡田彰布監督に、その封筒を取られてしまう。

 テレビ画面越しにこの様子を見つめていたのが、当事者である大阪・履正社高3年の山田哲人だった。地元・大阪の球団と、花の都・東京の球団。対外的には「12球団、どこに指名されてもOK」と公言しながらも、山田には意中の球団があった。

「僕はずっとヤクルトに行きたかったんです。口では『12球団どこでもOKです』って言ってましたけど、心の中では一番行きたい球団ってあるじゃないですか。それがヤクルトだったんです」

 見つめる画面の中では、小川監督が“3度目の正直”で当たりくじを引き、壇上でホッとしたような笑顔を浮かべている。もちろん当時の小川監督には、山田の思いなど知る由もない。偶然に偶然が重なり、運命に導かれるようにして山田とヤクルトは結ばれたのである。

 それから1カ月あまりが経って行われた、ヤクルトの新入団発表会。終了後の囲み取材で、山田について聞かれた小川監督が「落合(博満)さんみたいになってほしいなと思います」と話すと、囲んでいた記者からは笑いが起きた。

 それは山田が入団発表の席で、特技を聞かれて「ボウリング」と答えていたからだ。当時は中日の監督を務めていた落合は、一度はプロボウラーを目指したほどの腕前で知られている。それに引っかけた小川監督の発言だったからこそ笑いが起こったのだが、そこにはいくらなんでも三冠王3回の大打者のようにというのは……というニュアンスも込められていたと思う。

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予想以上の成長曲線を描いた山田