ヴァイヤーはパリ大学とオルレアン大学の医学部で学び、医学博士の学位を取得したプロの医師である。彼が述べている黒胆汁とは古代ギリシアのヒポクラテス以来、ヨーロッパの正統医学の基盤であった四体液病理説に関わる体液だ。この説によると、人体には血液・黄胆汁・黒胆汁・粘液があり、四体液のバランスが崩れると病気になる。黒胆汁過多の場合は、妄想・幻覚・意気消沈などの症状を伴うメランコリー症に罹るのだ。ヴァイヤーは正統医学の立場から魔女狩り批判を行ったわけである。

■魔女狩り推進派からの「魔術師」というレッテルにどう反論したのか

 ところがヴァイヤーの主張は激烈な批判を受けた。その急先鋒が国家主権の絶対性を唱え、近代の主権概念の礎を築いたことで政治学史上名高いジャン・ボダンである。ボダンは1580年に出版した『魔術師の悪魔狂』の中でヴァイヤーを猛烈に批判した。ヴァイヤーは、魔女はメランコリー症に罹っているというがそれは誤りである。魔女の様々な行為は想像でなく紛うことなき現実であり、よって魔女は火炙りにしなければならないと主張した。

 ヴァイヤーが魔女を弁護するのは、ほかでもないヴァイヤーが魔女の仲間であるからで、あの悪名高い最大の魔術師アグリッパの弟子であり、寝食を共にしていたと告白していると指摘している。

 ボダンが言う通り、ヴァイヤーは大学に入る前、アグリッパのもとで弟子として約3年間研鑽を積んでいた。さらにアグリッパの悪名高い大魔術師としての人物像はつとに広く知られていた。アグリッパが亡くなったとき、彼が「御主人様(ムッシュー)」と呼んでいた黒犬が公衆の面前で川に身を投げ、忽然と姿を消したという有名な噂がある。あの黒い飼い犬はアグリッパが仕えていた悪魔にほかならないというのである。

 だがヴァイヤーは、師であるアグリッパを擁護して先の著作で次のように述べている。

<私はこの犬を実際によく知っている。御主人様という名であったのは確かだが、大きさは中程度の黒犬で正真正銘の犬であり、綱を付けて散歩に連れて行ったものだ。黒犬が悪魔だという極めてくだらない説はアグリッパが犬を非常に可愛がり、接吻し、離婚してからは自分の寝床に一緒に寝かせていたことから生まれたのだろう。またアグリッパはこの犬を書物で溢れる書斎にも侍らせていた。いつもこの犬はアグリッパと私の間に座っていたのだ。>

 ヴァイヤーの著作から、愛犬家にして妻帯者というアグリッパの人物像が見えてくる。アグリッパには子どもも複数いた。

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ヴァイヤーが回顧した偉大な学者アグリッパ