●生まれ故郷には記念館が
氏の生まれ故郷、深谷には「渋沢栄一記念館」が建てられている。来年の大河ドラマの影響もあってか、このコロナ禍の中にあっても来館者は増えているようだ。誕生地が「血洗島」という地名であったことから、地名の由来で初見の人たちとも会話のとっかかりができると自慢にしていたのだという。ちなみに血洗島とはおどろおどろしい名前だが、云われにはいくつかの説があるらしい。「赤城の山霊たちが戦い無くした片腕の傷口を洗った」、あるいは「合戦で切り落とされた手を洗った」などなど。中では、付近を流れる暴れ川・利根川が“地を洗うように流れた”=チアライジマ、という説がもっとも頷けるかもという。
●生まれ故郷の神社への寄進
この血洗島には諏訪神社という鎮守がある。小さなお堂は渋沢氏の寄進で建造されたもので、90歳になるまで帰郷すると必ずこの社に参拝したのだという。境内には、氏の88歳の祝いに村人たちの寄付で建立された「渋沢青淵(せいえんおう=栄一氏の号)翁喜寿の碑」や長女が父のために植えた橘なども残されている。
●自宅の跡地には史料館が
渋沢氏が晩年を過ごした家があったのは、東京北区の飛鳥山になる。現在は、飛鳥山公園の一角に渋沢史料館として氏の業績を紹介する博物館となっている。併設する晩香廬(ばんこうろ)と青淵文庫は重要文化財に指定されている。資料館から数百メートル離れた場所に「七社神社」がある。明治時代の神仏分離令で移転を余儀なくされ、この地にあった「一本杉神明宮」と合併した社だが、この付近・西ヶ原の鎮守として地元から愛されてきた社である。
●最期を過ごした家の近くの神社の氏子に
ここで暮らすこととなった渋沢氏は「七社神社」の氏子となり、地域の一員として各種活動をする。鳥居横に、東京にはもう2カ所しか残っていないと言われる「一里塚」が保存されているのだが、大正時代の道路工事で撤去されそうになっていたところを渋沢氏をはじめとした地元の人たちの活動により、残されることとなった。日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の塚は、現在、国史跡に指定されている。何より、「七社神社」の扁額の揮毫(きごう)は渋沢氏の手によるもので、昭和4(1929)年に拝殿新築の落成式の折に書かれたのだという。
こうして渋沢氏が関わった文化事業を書き連ねると限りがない。氏には「富は社会に返還するもの」という心があったのだと多くの人たちの言葉にある。成功をおさめた先人たちの多くは「成功は自分一人の力ではない」という思いからか、神仏に寄進を重ねている。これは信心というより、運やツキに対する感謝の現れなのではないかと思っている。人の成功には、鍛錬や努力だけでは説明のつかない瞬間がある。それを己の力だけと過信する人は、どうも歴史の中に埋もれて消え去っているのかもしれない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)