哲学者 内田樹
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※写真はイメージ(gettyimages)
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 凱風館の寺子屋ゼミ後期のテーマは「米国」。先日の発表は「1920年代」だった。ジャズ・エイジ、「失われた世代」、大恐慌、「アンタッチャブル」といった文字列から断片的な印象は浮かぶが、実際には米国の1920年は、今からでは想像しにくいが、「革命の予感」とともに明けた。

 17年のロシア革命の翌年、レーニンは「アメリカの労働者たちへの手紙」で「立ち上がれ、武器を取れ」と獅子吼(ししく)した。そして、過激派による爆弾テロが米国内では散発的に起きていた。19年6月の同時多発爆弾テロでは、司法長官ミッチェル・パーマーの自宅にも爆弾が投げ込まれた。危機一髪で命拾いしたパーマーは「武装蜂起は近い」という確信を深めた。

 武装蜂起は必ず起きる。問題は「いつ」「どこ」でだけだ。パーマーは司法省に入ったばかりの若者J・E・フーヴァーに情報収集の任務を与えた。フーヴァーはパーマーの期待に応えて、秘密革命組織が20年5月1日に一斉武装蜂起を企てているという「情報」を上げた。信じたパーマーはニューヨーク、ワシントンDCはじめ全米の大都市に警官を動員して、要人警護に当たらせた。しかし、メーデーには何も起きなかった。パーマーは全米の「笑いもの」になり、W・ウィルソンの後を襲ってホワイトハウス入りが確実視されていながら、大統領候補レースから脱落する。

 一方、その原因を作ったフーヴァーは後任の司法長官に首尾よく取り入り、新たに立ち上げられた連邦捜査局(FBI)のトップに抜擢され、以後48年にわたり米諜報機関に君臨したことはご案内の通りである。

 1920年の米国社会には革命が起きる現実的な可能性はほとんどなかった。そのことを私たちは今では知っている。けれども、リアルタイムでは暴力革命を本気で恐怖している人たちが政権中枢にいたのである。そして、その恐怖を利して巨大な権力を手に入れた人間もいた。

 米国では武装蜂起が準備されているという「フェイクニュース」がネットには今日も流れている。その嘘がいずれ誰かを傷つけ、誰かを利することになるのだが、私たちはそれが誰であるかを今は知らない。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2021年1月11日号