53年には週刊誌ジャーナリズムに新境地を開いたとして菊池寛賞を扇谷と週刊朝日編集部が受賞した。しかし、そんな父の背中を見て育った正紀氏だが、自身は記者や編集者にはなりたくなかったという。幼いころ、目撃した光景が今も鮮烈に残っているからだ。
54年に青函連絡船の洞爺丸が沈没した。第一報の電話が自宅にいた扇谷に入ると、すぐに編集部にいた記者を派遣することに。しかし、夜遅くでお金がない。そこで自宅に記者を呼び、お金を渡した。現場に行って扇谷宅まで戻ってきた記者は疲労困憊(こんぱい)。しかし、B5サイズのざら紙に原稿を書いていく。その一枚一枚に赤鉛筆で直しを入れる扇谷。すると、「なんだこの記事は」と叱責し始めた。正紀氏は襖越しにその様子を怯えながら見ていた。軍隊あがりの扇谷は「兵隊と新聞記者は、たたけばたたくほど強くなる」という信念の持ち主だった。扇谷に怒鳴られ続けた記者は睡眠不足と疲労でとうとう気を失ってしまったという。
「新聞社は本当に厳しいところだと感じました。絶対にこんなところ行くまいと思いましたね(笑)」
(本誌・吉崎洋夫)
※週刊朝日 2021年2月26日号