所属した陸軍では、2等兵(最下層の階級)として壮絶な体験をしたと正紀氏は言う。
「父は30歳代にして全部入れ歯でした。陸軍で激しいリンチに遭い、歯を失ったんです。配属された中隊では大学出は父一人。『大学出といってもこんなもんだ』という見せしめだったのでしょう。軍隊がいかに不条理な組織であるか身に染みた経験だったと思います。これが反戦、反権力の姿勢につながった。また、人々のたくましさを改めて知ったと思います」
中国・漢口付近で終戦を迎える。引き揚げ船に乗るまで、バーで皿洗いのアルバイトなどをし、46年春に復員した。
扇谷が初めて週刊朝日に来たのは、47年だ。整理部次長から週刊朝日副編集長になった。
この時代の週刊朝日は、全22ページ。表紙は2色で、定価は5円。カラーページもあったが、かなりの薄さだ。紙は割り当てのものとヤミ紙を使い、10万部を発行した。
当初の目標は35万部にすること。これは太平洋戦争のはじめに発行していた部数だ。当時、一般週刊誌は新聞社系の本誌とサンデー毎日(大阪毎日新聞社発行・当時)の2誌だけしかなかった。
扇谷が重視したのは、トップニュース、つまり特ダネだった。週刊朝日を一躍ニュース雑誌として世に知らしめたのが、太宰治とともに入水自殺した愛人・山崎富栄の日記のスクープだ。この日記を入手したのは記者の永井萠二、担当副編集長として指示をしたのが扇谷だった。各新聞・雑誌による争奪戦の中でのスクープだった。
この記事が掲載された48年7月4日号は、巻頭から巻末まで全て太宰関連の記事で埋め尽くされている。発売後わずか4時間で売り切れた。
しかし、このスクープについては、社内外から「太宰の日記ならわかるが、愛人のを載せるなんて」「週刊朝日は朝日の品位を落とした」などの批判の声が上がった。
扇谷はこうした批判に対して、当時の出版局内報で次のような反論を掲載している。
<『週刊朝日』は何よりもニュース雑誌(略)。あるがままの素材を投げだし、読者が自ら結論を出せばよい。/我々は勿体ぶって読者に神々の声をささぐべき立場にはいない。そういう立場はすでに、戦争中の新聞の在り方とともに反省されるべきだ>(永井萠二著『焼け跡は遠くなったか』)