2月に99周年を迎える本誌「週刊朝日」には、発行部数150万部という黄金時代があった。扇谷正造が編集長を務めた1951~58年だ。敗戦後にわずか10万部だった雑誌を押し上げた原動力は何だったのか。息子・正紀氏(80)がカリスマの実像を語った。
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ここに一通の古びた封筒がある。1944年6月、扇谷正造が通信兵として中国の前線に出る前、朝鮮半島の羅南で書いたものだ。宛先は宮城県の実家に疎開している妻になっている。中には3枚の便せんが入っていた。
手紙の冒頭には鉛筆書きで「遺言状」とある。<我らはペンを銃に持ち代えるに非ず、軍服を着たるペンなり。>
この部分だけ何度も書き直した跡があった。
「ここには父の、自分は絶対に軍人ではない、ペンで生きる男なんだという気持ちが表れている。こんなことを書いたら、上官から殴られるのは当然ですよ。でも自分の意思は残したい。ここを見るといつも涙します」
いったい扇谷とはどういった人物だったのか。
13年に宮城県で生まれ、旧制二高を経て、東京帝国大学文学部国史学科に進む。「帝大新聞」(現・東大新聞)に所属した。後に「暮しの手帖」名編集長で、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモチーフになった花森安治も所属し、このころから2人は盟友だった。
35年に大学を卒業し、朝日新聞社に入社。支局を経て、社会部に配属され、二・二六事件(高橋是清蔵相など重臣が青年将校に殺害された事件)も取材したという。
38年には戦争特派員として中国、41年に台湾、フィリピンなどで従軍した。扇谷は20代の将来を嘱望された記者。主に将校や下士官を取材し、日本軍の“華々しい戦果”を記事にして日本に送っていた。多くの作家が戦地に送られ戦意高揚の役割を担っていたが、扇谷も例外ではなかった。
その後、戦争も末期を迎えた44年に宮城県の実家に赤紙が届く。既に家庭もあり子供が3人いたが、31歳で召集された。冒頭の遺言状は出兵先の朝鮮羅南で中隊全員が書かされたものだ。