後年、扇谷はこのころから週刊朝日は「“買わないと損する雑誌”となった」と振り返っている。ちなみに、特ダネを取ってきてトップの記事を書く記者のことを「トップ屋」というが、この言葉を作ったのが扇谷という逸話もある。

「本人には何かモノサシのようなものがある様子でした。ひょっとしたら踏み外しているかもしれないようなネタでも、ぎりぎりのところを渡っていく。それまでの常識ではやらないことを切り開いていった人でした」

 49年に週刊朝日を離れたが、50年に復帰。51年に編集長に就任した。その後、順調に部数を増やし、58年の新年号は150万部以上を刷った。

 どうやってここまで部数を伸ばしたのか。

 扇谷はこの時代では珍しく、マーケティングを重視した編集者でもあった。有名なのは「シュガーコート編集法」だ。シュガーコートとは、政治的な記事など難しい社会の問題を最近の流行などを交えながら、わかりやすく伝える手法のことだ。アメリカの月刊誌「リーダーズ・ダイジェスト」を参考にしていたと正紀氏は振り返る。

「自宅は国立(東京)にありましたが、会社へは中央線に乗り、東京駅に向かう。週刊朝日の発売日は最後尾から1両ずつ車両を移動して、週刊朝日とライバルのサンデー毎日を読んでいる人はそれぞれ何人か調査するんです。こうして読者の反応を掴んでいたようです」

 ターゲットも明確に設定した。「戦前の義務教育卒の学力+10年の人生経験」を持った主婦を読者層として捉えたという。当時は、勝手口で新聞の料金を払ってもらうことが多く、このときに主婦に週刊朝日も買ってもらうことを狙ったのだ。扇谷の著書によると、新聞の集金は毎月25日前後、週刊朝日では第3週号にあたる。主婦が「パチン、パッ」と財布を開き、買ってもらえるトップ記事を用意する方針を打ち出している。

 表紙を重視したのも扇谷が来たときからだ。戦前にはなかった「個性的な美人画」を表紙にすることに取り組み、手ごたえを掴んだ。48年ごろからは人物画以外にも風景画、静物画、抽象画にも挑戦している。好評を集め、その後、表紙コンクールを開催。100万を超える票が集まる企画になっていった。

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