江川卓(えがわすぐる)/ 1955年、福島県生まれ。作新学院時代は公式戦でノーヒットノーラン9回、完全試合2回などを達成。1973年のドラフトでは阪急から1位指名を受けるもこれを拒否して法政大学へ。大学卒業時にはクラウンライターからの1位指名を受けるがこれも拒否してアメリカへ留学。その後の1978年、通称「空白の一日」を経て、巨人へ入団。デビューイヤーは9勝10敗だったものの、翌年から2年連続でセ・リーグ最多勝投手、3年連続でセ・リーグ奪三振王に。1984年のオールスターゲーム第3戦では8者連続奪三振を達成。速球の他はカーブのみという先発完投型の本格派エースとして1980年代の巨人を支えた。故障の影響もあり1987年、32歳の時点で突如、引退を表明。通算9年間の巨人でのキャリアを終えた。現役通算135勝72敗。奪三振数1366個。最多勝利2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回、ベストナイン2回など受賞も多数。(撮影 宇都宮ミゲル)
江川卓(えがわすぐる)/ 1955年、福島県生まれ。作新学院時代は公式戦でノーヒットノーラン9回、完全試合2回などを達成。1973年のドラフトでは阪急から1位指名を受けるもこれを拒否して法政大学へ。大学卒業時にはクラウンライターからの1位指名を受けるがこれも拒否してアメリカへ留学。その後の1978年、通称「空白の一日」を経て、巨人へ入団。デビューイヤーは9勝10敗だったものの、翌年から2年連続でセ・リーグ最多勝投手、3年連続でセ・リーグ奪三振王に。1984年のオールスターゲーム第3戦では8者連続奪三振を達成。速球の他はカーブのみという先発完投型の本格派エースとして1980年代の巨人を支えた。故障の影響もあり1987年、32歳の時点で突如、引退を表明。通算9年間の巨人でのキャリアを終えた。現役通算135勝72敗。奪三振数1366個。最多勝利2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回、ベストナイン2回など受賞も多数。(撮影 宇都宮ミゲル)
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 昭和のプロ野球史を彩った名選手たちの雄姿は、私たちの脳裏に深く刻まれている。そんな名選手たちに、長い野球人生の中で喜びや悔しさとともに今も思い出す、忘れられない「あの一球」を振り返ってもらった。全4回の短期集中連載最終回は、「怪物」として数々の伝説を残した江川卓さんに聞いた。(宇都宮ミゲル)

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 これまで、何人ものレジェンドと対面した。そしてインタビューの中ではそれぞれのレジェンドが、かつてのライバル、自らにとっての難敵について熱く語ってくれた。そこで最も多く登場した名前が江川卓である。だからこそ、伝説の怪物に是が非でも会いたかった。とにかくその言葉の一つひとつを丁寧に紹介していきたい。

 まずは、実に多くのレジェンド達が史上最高の投手として名を挙げた事実について告げると、江川は一瞬、困惑した表情を見せながらもこう話した。

「真っ直ぐは確かに自信を持っていました。ただ、三、四年目くらいでしょうか。肩を痛めまして、プロ野球生活九年のうち前半の半分はスピードだけで抑えていくといった投球でしたが、後半の半分は肩の痛い状態で投げていたということになります。ですから肩を痛めてからはコントロールがないと生きていけないと思って、ボールを半個分、外したり入れたりという作業を練習でも行って、乗り切ったという印象、それが本音です。キャリアの前半、後半にはこうした違いがあったとしか言えません」

 では本人も認めるキャリア前半、スピードに自信があった時代のボールはどのような種類のものだったかを訊ねていきたい。具体的にはプロ入りした一九七九年から、セ・リーグ最多勝を獲得した翌年の一九八二年あたりまでのおよそ四年間。この時代の江川をライブで見られた我々はつくづく幸せだった。そのボールを目にした打者は口々に「ボールが浮き上がって見えた」と話し、そのスピードは他投手とは別次元にも見えた。三年連続奪三振王としてセ・リーグに君臨した時代でもある。

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