東京都の会社員女性(38)の自宅には、ラベルがはがれ、サビの付いた缶詰がある。賞味期限の刻印は2012~13年。それでも、捨てることができない。缶詰は東日本大震災の津波で被災した工場から「掘り出された」ものだ。
女性は、ボランティアとして缶詰の洗浄に携わってきた。
「人がいない、明かりがない、車もほとんど通らない。壊れた工場が立ち並んだ『廃墟』の街の一角で約2カ月間、社員のみなさんと一緒に缶詰を洗っていました。毎日ひたすら缶詰を洗い続ける仕事は、がれきの撤去のような『達成感』は少ないけれど、この積み重ねが社員の笑顔をつくる『希望』だと思うと頑張れました」(女性)
この缶詰の製造元、木の屋石巻水産の木村優哉さん(36/現社長)もこう振り返る。
「この缶詰は、私たちにとって、文字通り『希望』でした」
■あの日、津波ですべてが破壊された
宮城県北東部の石巻港は、2010年には水揚げ高全国3位を誇った日本有数の大漁港。漁港に面した一帯は「魚町」と呼ばれ、200軒を超える水産加工会社が立ち並んだ。木の屋石巻水産も1957年からここに工場を構え、缶詰や海産物の加工品を製造してきた。だが、2011年、そのほぼすべてが津波で破壊される。
津波の2日後、ともに避難していた社員約10人と工場にたどり着いた木村さんは、文字通り言葉を失った。
「あまりにも現実感のない光景。正直、何の感情も湧いてきませんでした」
工場には、高さ11メートルもの巨大な「缶詰」が置かれていた。木の屋の名物だった「クジラの大和煮缶」をモチーフにしたもので、クジラの街・石巻を象徴するシンボルにもなっていた。容量1千トン、震災時にも200トンの魚油が入っていた。それが工場から約300メートルも離れた場所で横倒しになっている。2日前までフル稼働していた生産ラインも、1年分の在庫が保管してあった倉庫も、完全に破壊されていた。
倉庫にあったはずの缶詰は約100万缶。泥のなかから見つかった缶詰を持てるだけ持ち帰り、支援が届くまでの食料にした。近所の避難者にとっても貴重な食料になったという。
■缶詰を送ってほしい
被災した多くの企業が11年3月末でいったん従業員を解雇するなか、木の屋は雇用を継続した。だが、再建の可能性が見えていたわけではもちろんない。
「3月は社員の生存確認だけでいっぱいいっぱい。4月になっても何から手を付けていいのかすらわからなくて、方向性も何もない。そんなときに、缶詰を送ってほしいという話を頂きました」(木村さん)
かねてから取引があった東京・世田谷の飲食店主が、「泥が付いたままでいいから缶詰を送ってほしい」と申し出てくれたという。送られた缶詰は商店街の人の手で洗浄され、「義援金300円と引き換えに1缶プレゼント」というスタイルで「販売」された。
やがてその動きは全国に広がり、「希望の缶詰」と名付けられた。