また、昔から「異界」的なものに惹かれていた東畑は、休日になると外に出かけ、御嶽(うたき)を探し回った。御嶽とは琉球神道の祭祀をおこなうための聖地のこと。山間部の観光地化されたところから、庭先にしつらえられたようなものまで形態は無数にある。ご神体のようなものはなく、自然の中にある岩や、小さな石で作られた祠が街中いたるところに存在し、市井の祈りの場所として機能している。アニミズムがとりわけ強い沖縄ならではの経験だった。
「沖縄で職を得たのはたまたまなんですが、現代社会で周縁に追いやられた時空をフィールドワークしたいという欲望が前からものすごく強くて、いろんな宗教団体の話を聞きに行ってみたり。新興宗教にも興味がありました」
心理学では説明のつかない人間の心の奥深い、掴もうとしても指の間からすり抜けてしまうような「心」の在りようを、東畑は過剰ともいえる好奇心のおもむくままに探し回った。学派の違いで分裂したり、先達の研究を金科玉条のごとく扱ったりする同業者の態度にはどこか辟易していた。
こう書くと忙しそうな日々のようだが、実際には真逆で、「空白」の時間が連続する場だった。週に2回デイケアを担当し、あとは外来でカウンセリングを担当するのが東畑の勤務条件だったが、実際にはデイケアの合間にカウンセリングを担当するのが常だった。毎日、デイケアに出て患者やスタッフとプログラムに参加し、一緒に自由時間をつぶした。すなわち、デイケアの空間に「居る」ことが、東畑の仕事だった。
もちろん患者と雑談することもあるが、それらは治療的なセラピーではなかった。自分の机にぼんやりと座っていることが日常で、とくにやることもなく、「机の木目を数えてました」。セラピーの臨床を重ねることで、心理士として自らを磨こうと胸躍らせて沖縄に来た東畑は、だまされたような気持ちに陥ってしまう。
「デイケアの仕事をこなして、スタッフと安居酒屋で泡盛飲んでいても、早朝に起きて論文を書いていたのは、臨床心理学者としてこのままじゃいけないという思いからでした。俺の人生どうなっちゃったんだろうって、じつは苦しかった」
たまに気分を乱す患者を看護師といっしょになだめたり、患者とたわいのない会話をしたりするのだが、時間が止まったような、退屈で弛緩した時空に、ただ「居る」こと自体がつらくなり、耐えられなくなる。患者もスタッフも、そして臨床心理士である自分も、ただ「居る」日常を淡々とこなしていくことにいったい何の意味があるのか。それが自分の役割なのか。臨床心理学に没頭してきた若き博士は煩悶し続ける。
(文・藤井誠二)
※記事の続きは2021年3月29日号でご覧いただけます。