蔵前国技館や相撲部屋がある地域の学校だから、相撲取りも受け入れようという風潮があったようだ。それまでは、偏差値が下がるからか、相撲取りを積極的には受け入れてなかったのかな?(笑)。そこで、俺たち3~4人が相撲取り一期生として両国中学校に通い始めたんだ。

 そこでまず先生に言われたのが「嶋田君、授業中は寝ててもいいから、いびきはかかないようにね」だった。まったく、学校の先生が言うことじゃないよ!(笑)。まだテストケースだったから、俺たちの態度次第では翌年以降の相撲取りが受け入れらなかったかも知れないね。

 それにしても、東京の中学生は生意気だと思ったね。音楽の話でも、福井にいるときは村田英雄と三波春夫くらいだったのが、東京ではシルヴィ・ヴァルタンやザ・ビートルズなんかの洋楽の話で持ち切りなんだ。これには刺激を受けたもんだよ。

 それから中学校といえば、三遊亭円楽師匠も同級生。いつも話しているが、彼は不良グループの一員でね。俺たちのような田舎から出てきた相撲取りなんかがデカい顔してると、当時学校の裏にあった青果市場に呼び出しておどしたりするんだ(笑)。その“思い出”の市場は今では「江戸東京博物館」になっているよ。

 相撲からプロレスに転向した新生活も戸惑いがあったね。相撲部屋は集団生活で付け人がいたり、お互いに協力していたけど、プロレスは基本的に一人。どうしていいか困っている時、いろいろと手助けしてくれたのが、ザ・グレート・カブキさんや相撲から転向したグレート小鹿さん、大元司さんたちだ。彼らが元いた日本プロレスは力道山関が設立して、芳の里さんが社長をやっていたこともあって、相撲とは密接な関係にあった。だから相撲から来た俺になにかと目をかけてくれたね。逆にジャンボ鶴田や渕正則信、大仁田厚たちは、特別待遇のような形で全日本プロレスに入った俺に寄って来なかったけど(笑)。

 カブキさんたちにお世話になったから、俺も相撲からプロレスに転向する後輩のことはいろいろと気にかけていたよ。

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