王をカウント0-2と追い込んだ小川は、テークバックした右腕をそのまま背中に突きつけると、体の左裏側からヒョイとボールを投げた。
アンダースローの技巧派ならではの珍芸当も、球は外角に外れ、惜しくもボールになった。
だが、意表をつかれた王は打席で呆然とし、スタンドからも大きなどよめきが起こった。
そして、直後、王は右飛に倒れる。決め球にこそならなかったが、とりあえず「王を打ち取る」という所期の目的は果たせた。
さらに中日が2対1と逆転した直後の6回1死、小川は王を1-2と追い込んだあと、再び背面投げを披露する。
今度はワンバウンドのボールになったが、タイミングを狂わされたのか、王はフルカウントから見逃し三振に倒れた。
“本番”の前に一応審判にお伺いを立て、「ああいう投げ方も構わない」とお墨付きを得ていた小川は「前からちょくちょく練習していたもので、これからも左バッター用に使うつもりだ。面白いアイデアでしょう」としてやったりの表情。
一方、王は「そりゃあ、ちょっとビックリしたけど、あれよりも超スローカーブのほうが手を出しにくい。でも、どっちにしても、勝負になる球にはならんでしょう」とあまり意に介していなかった。
小川は背面投げにさらに磨きをかけ、お披露目の機会を窺っていたが、実現することはなかった。翌70年5月6日、オートレースの八百長に関係していた疑いで逮捕され、球界を永久追放になってしまったのだ。
最後は打者編。自身の本塁打数を増やしてチームの優勝に貢献するという目的から、本拠地球場のラッキーゾーンを前にせり出させるというビックリ提案をしたのが、阪急の助っ人、ダリル・スペンサーだ。
来日1年目から2年連続で30本塁打以上を記録したスペンサーは、4年目の67年のシーズン開幕を前に、西本幸雄監督と青田昇ヘッドコーチに「球場が広過ぎる。もっと狭くしてくれ」と西宮球場の丸くて深い左中間のラッキーゾーンを3メートル前に出し、センターからレフトまでを直線にするよう提案した。