プロ野球界を生き抜くのは、並大抵のことではない。過去には「そこまでするのか」と驚くような行動で名を残した選手も存在した。
【写真】「平成で最もカッコいいバッティングフォーム」はこの選手!
ダイナミックな“マサカリ投法”で通算215勝を挙げた村田兆治(ロッテ)も、その一人だ。
右肘の故障で引退危機に陥った1983年にトミー・ジョン手術を受け、奇跡のカムバックをはたしたエピソードが有名だが、フォークボールをマスターするまでの血の滲むような努力も、想像を絶するものがあった。
71年、12勝8敗と初めて二桁勝利を挙げた村田は、これからもプロの世界で生き抜いていくために、ストレート以外のウイニングショットを習得しようと考え、究極のフォークに取り組んだ。
当時、フォークを得意としていた阪急の米田哲也が、ボールを人差し指と中指の間に挟み、片方の手で引っ張り抜こうとする独特の鍛錬を積んでいることを知ると、すぐさま採り入れた。
車のハンドルや家のドアの把手、湯飲み茶碗など、日常生活のすべてにおいて、人差し指と中指を使い、握力強化に努めた。テニスボールやハンドグリップを肌身離さず、睡眠時も指の間にテニスボールを挟み、テープでぐるぐる巻きにして寝たことから、炎症を起こしたが、「これくらいはやって当然と思っていた」(自著「村田兆治の直球尽誠」日刊スポーツ出版社)。フォークの握りを深くするため、人差し指と中指の間にナイフで切り込みを入れたこともあったという。
そんな壮絶とも言うべき努力の末、水がたっぷり入った一升瓶や鉄アレイを2本の指で挟み、夫人に引っ張らせたが、女性の力では引き抜けないほど、フォークの握りは磐石なものになった。
“マサカリフォーク”は、“昭和生まれの明治男”の妥協を許さぬ真摯さと不断の努力の賜物と言えるだろう。
“世界の王”を打ち取りたい一心から、体の後ろからボールを投げる“背面投げ”を編み出したのが、中日・小川健太郎だ。
驚異の変則投法がお目見えしたのは、1969年6月15日の巨人戦、3回2死で王貞治を打席に迎えたときだった。