●定信の最期は家なき子
息子を暗殺され、罷免後2年で没した田沼意次に比べ、35歳で職を辞した定信のその後の人生は長い。白河藩主として過ごしたのち、江戸の白河藩下屋敷に浴恩園を構え、楽翁として隠居した。浴恩園のあった場所は現在の築地市場跡地のあたりになる。1829(文政12)年初旬にひいた風邪が長引き、3月に起こった大火事(甲午火事)で松平家の上屋敷はおろか、中・下屋敷までも焼失、病身の定信は寝たまま乗る屋根付きの駕籠で移動したため、避難する江戸の人々の間で大混乱を招くことになった。この時「「越中が 抜身で逃る 其跡へ かはをかぶつて 逃る越前」などと瓦版で揶揄された。長くイメージ戦略に利用してきたにもかかわらず、老中に就任以後、質素倹約に反するとして規制をかけられてしまった瓦版業界からの仕返しだったとも言われている。結局、定信は避難先である伊予松山藩の中屋敷で生涯を閉じた。享年72。そして江東区の霊巌寺に眠っている。
霊巌寺の現在の地名は「白河」と言うが、これはもちろん定信のお墓があることに由来している。霊巌寺は関東十八檀林の一つでもあり、江戸の六街道を守護するという六地蔵(水戸街道守護、享保2年作)のひとつが鎮座する。徳川家康に縁を持ち知恩院32世門跡でもある霊巌によって開かれた大寺であることは間違いない。ただ、松平定信の生涯を見れば、自分の家でもない場所で亡くなり、血筋である徳川御三卿の田安家の墓所でもなく、歴代松平家の菩提寺でもない霊巌寺に墓所があるのは、なんとなく気の毒な気がする。霊巌寺も明暦の大火で焼け落ち、霊岸島からこの場所へ引っ越してきたという定信の境遇と似ていなくもない歴史はあるのだが。
俳人でもあった定信の辞世の句は墓碑にも残る「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」。このような身の上になった原因のひとつは、松平家への養子を解き田安家に戻れるという約束を反故にした、田沼意次にあった──と生涯にわたり思っていたのかもしれない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)