知人と、「スーパームーンが皆既月食」について話した時、「これが平安時代におきたなら朝廷は大混乱で政権安定のために改元が行われたのでは」という話になって、たしかにそうだなぁと思った。政治が自然現象の責任を負わされない分、今の方がラクなのではないかとさえ感じる。
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●天皇までが動いた天明の大飢饉
天明の大飢饉は1788年まで続き、特に東北の被害は凄まじく津軽藩だけで8万強の人が飢餓で死亡、1784~85年の2年の間に日本の人口は約92万人減少したという。この時の将軍は10代・徳川家治(吉宗の孫)、田沼意次が側用人として政治の多くを取り仕切っていた。あまりの飢餓から京都では、御所へ人々が数万人が集まり天皇へ窮状を訴えたことから、禁中並公家諸法度に違反する行為でありながら、光格天皇は幕府へ民衆の救済を求めている。厳罰を覚悟の上のことだったが、これをすんなり受け入れなくてはならないほど、市井の人々の不満と怒りは大きく、幕府の苦悩がにじみ出ている。
もっとも、この年は11代・徳川家斉の就任とともに田沼意次は罷免され、代わりに吉宗の孫である松平定信が政治の表舞台へと登場した変わり目で、幕府の新しい体制を見せる意味合いもあったのかもしれない。
●みごとな手腕を見せた定信の藩政
田沼意次は賄賂と金権政治で腐敗した人物との印象が強いが、一方で、今までなかった商人への課税や株仲間の結成、新たな工業の開発などに務め、幕府の財政は大いに潤った。実際、後を継いだ松平定信は、備蓄された300万両を自らの政策の中で最大限に利用し、備蓄金を1/5ほどまでに減らしている。
天明の大飢饉の遠因のひとつとして、田沼による貨幣経済の浸透により人々が都市へ流入、農業従事者が急激に減っていったために作物不足になったとも言われている。特に東北地方は、1770年代からすでに収穫の低下から農村部は困窮状態にあったにもかかわらず、各藩主たちは手をこまねき、あろうことか都市部での米の値上がりを見て備蓄米さえも売り払ってしまうのである。
そして全国的に、一揆や米問屋などの打ち壊し、また逃散が頻発する中、当時は白河藩主であった松平定信は、領地の各地から米を集め、またそれほど凶作となっていなかった関西などから雑穀も含めて買い集め、領民たちに配給したのである。