しかし、高校時代に全国的に無名で終わったことは、野球人生において、必ずしもマイナスではなかった。

 落合はその後も、大学の体育会系雰囲気になじめず中退→プロボウラー挑戦→東芝府中に臨時工で入社して野球再開と、オレ流を貫き通し、20代後半に“打撃の職人”として遅咲きの花を咲かせている。

「マナーが悪い」と異例の厳重注意を受けた規格外のチームが、84年夏の甲子園で4強入りした鎮西だ。

 1回戦の高崎商戦の試合前、審判が鎮西ナインに注意事項を説明している最中、なんと、一部の選手が壁にもたれて、気だるそうに聞いているではないか。

 だが、これはほんの序の口だった。試合中、捕手がホームプレートに唾を吐いたり、審判の判定に対して露骨に反抗的な態度を取ったり、故意に送球を妨害するような走塁を行ったり、相手チームの選手に暴言を吐いたりと、やりたい放題。試合は鎮西が3対1で勝利したが、見るに見かねた審判団の中には「試合を中断して注意しようじゃないか」という強硬意見も出た。

 西大立目永球審も「試合に勝つことも大事だが、スポーツの根本精神が忘れられていている。これまで個々の選手を呼んで注意したことはありましたが、(チーム全体が問題になったのは)17年間の甲子園での審判生活で初めての出来事」と眉をひそめるほどだった。

 試合後、大会本部は、宇佐見誠也部長、阪田末好監督、丸田洋史主将の3人を呼び、厳重注意した。

 丸田主将は「相手選手の言葉にカッとして、つい暴言を吐いてしまった。悪いことをしたのは僕ら。それなのに、監督さんに迷惑をかけて……」と反省しきりだったが、その後、事件が報道されると、宿舎に非難の電話や手紙が殺到し、ナインはヒール役になった。

 サブマリン投法で“杉浦忠2世”と呼ばれたエース・松崎秀昭(元南海)は「一部誤解されている部分もあるんですが、マナーに問題があったのも事実なので、あれから全員毎朝4時に起きて、宿舎近くのポートアイランドの清掃をしました。反省の意味を込めてね」と回想する。

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“ヤンキースタイル”の球児も…