8月15日の戦没者追悼式で、菅義偉総理が初めて読んだ式辞には、安倍晋三前総理の挨拶のコピペが多く、「菅色」はほとんどなかった。賞賛も批判もさして大きくなく、人々はほとんど関心を持たなかったようだ。
そんな中で東京新聞が、式辞の中で使われた「積極的平和主義」という言葉を取り上げて記事を載せたのが目を引いた。
「積極的平和主義」という言葉は、安倍前総理が好んで使っていたが、その言葉の使い方は完全に間違っていた。私は、2014年に拙著の中でそれを指摘していたので、この記事のタイトルに関心を持ったのだ。
同記事によれば、「積極的平和主義」は、安倍・菅政権の「国家安全保障戦略を貫く基本思想」であり、日米の軍事的一体化や、自衛隊の海外派遣を正当化する根拠として使われたと解説した。
確かに、安倍前総理がこうした意味で「積極的平和主義」という言葉を使っていたのは事実だ。しかし、この使い方は、安倍氏独自のもので、世界の平和学の中での「積極的平和主義」とは天と地ほど異なる間違ったものである。
例えば、東京書籍の14年版『公民』の教科書によれば、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは、戦争のない状態を「消極的平和」と定義した。一方、たとえ戦争がなくても、病気や貧困、ハンディキャップなどに苦しみ、本来持っている能力を開花させることを阻まれている人々もいる。そうした状況をなくして一人ひとりが人間らしく生きられるよう、単に戦争がないだけでなく、貧困、病気、飢餓、人権抑圧、環境破壊などの「暴力」がない状態を、ガルトゥングは「積極的平和」と定義したとある。
こうした意味での「積極的平和」を目指すことが、世界標準の「積極的平和主義」であるとすれば、米国と共に自衛隊が海外で武力行使できるようにすることがその帰結であるという理屈はどう考えてもあり得ない。
実は、本物の「積極的平和」主義は、日本国憲法が求める平和主義と完全に重なるものだ。憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という一節がある。これこそ本来の積極的平和主義であり、軍隊を引き連れて悪い奴らを叩くという安倍前総理らの発想はその対極にあるものだ。