※写真はイメージ/Gettyimages
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 まだ世の中のことを寸分も理解しないでいる少年が、地下鉄工事の現場で自死するのは、この社会がかかえている矛盾をひとりでかかえていった姿ともいえる。大変失礼な推測をする。もし彼が犯罪者に転じて、そのことにより“社会的発言”を得るようになったら、たちまちのうちに“守る会”なるものが、その発言を武器にするだろう。実際にそういう例があるではないか。

 しかしひたすら「レコードをきいて泣いている」少年には、だれもふりむいてはくれない。そこにまたこの社会の二重の残酷さがある……と私は思う。

 江尻少年は、昭和36年12月16日に生まれた。高度成長政策が進められたころに生まれたのである。推測すれば、物質的に恵まれた環境が用意されている世代のはずだ。

 実家は福島県の小さな町にある。そこには祖父母と母親、そして小学生の弟がいる。サンケイ新聞の報じるところでは、彼の自殺を東京の警察が伝えると、母親は絶句し、つぎに弱々しく汽車賃の心配をしたという。そこに家庭環境の一端がのぞかれる。

 少年は地元の中学を卒業すると、すぐに神奈川県藤沢市の電機会社に就職した。仕事は、ベルトコンベアの作業工程の監視だった。彼に必要なのは、目と手だけである。じっと流れてくる部品を見つめているだけだ。それも限られた時間いっぱいつづける。神経は疲れる。仕事を終えると、会社の体育室でピンポンをして寮に帰ってくる。あとはテレビを見るだけだ。

 平凡な日々のくり返し。

 そこには彼なりに満足感はあったろう。なぜならここにいる限り衣食住が保証されるからだ。ときに家庭へ仕送りをしている。しかしこういう生活に耐えるには、ある種の諦観とか割り切りが必要になる。そこに達するには、彼はまだあまりにも若すぎた。

 中学時代、少年は野球部にはいっていた。万年補欠だった。それでも退部はしなかった。家に帰るより、学校にいるほうがまだ楽しかったからともいう。そういう楽しさを、人生のあきらめにむすびつけるのは、彼にはあまりにも厄介な営みだった。

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電機会社を辞め東京に出た彼は…