また、黒金門跡は、桝形構造となっている。これは、近世城郭における虎口の到達点であり、安土城に採用されている意味は、見逃せないポイントとなる。
本丸には、大手道・百々橋口道など、複数の登城路が通じていた。百々橋口からの登城路は、城内に創建された寺院である摠見寺の境内を通る。宗教に無関心であったとも言われる織田信長だが、仏教による守護を求めていたのは間違いあるまい。というのも、この摠見寺は、信長自身が創建したものだからである。
天正十年(1582)の本能寺の変後、安土城は焼失。織田信長の次男信雄が火を放ったともいわれるが、確証はない。すでに山崎の戦いで明智光秀が敗北したあと、安土城を守備していた光秀の家臣が敗走する際に自焼したものであろう。
なお、焼失したといっても、城域のすべてが焼失したわけではない。信長の嫡孫秀信が入城し、織田氏の居城となる。天正十三年、豊臣秀吉の養子豊臣秀次が近くに八幡山城を築城し、安土城は廃城となった。天守など建造物の遺構は失われているが、石垣の保存状態は良好なので満点としている。
現在、整備されているのは主郭部だけであり、本来の城域はもっと広い。そのうえ、観音寺城を詰の城と考えることができれば、その防御力は格段にあがるため、防御力も満点とした。
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第1位 鳥取城(鳥取県/96点)
江戸時代・近世城郭へ改修された悲運の城
今回、「戦国の山城ベスト50」の第1位に選んだのは、悲劇の城として知られる鳥取城である。
天正八年(1580)、織田信長の命をうけた羽柴秀吉が因幡に侵入して鳥取城を攻撃すると、城主の山名豊国は秀吉に降伏した。しかし、これを不服とする家臣らは、安芸の毛利輝元に支援を要請し、山名豊国を追放。こうして鳥取城は、城将として派遣された吉川経家を中心に、織田方と戦うことになったのである。
羽柴秀吉は、天嶮の要害として知られていた鳥取城を力攻めすることを避け、兵糧攻めを行う。餓死者も続出したこの攻城戦は、後世、「飢え殺し」と呼ばれる。翌天正九年、3カ月ほど続いた籠城戦の末、ついに吉川経家は降伏開城した。
その後、秀吉の側近宮部継潤が城主となり、継潤の死後は子の長房が受け継ぐ。しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍石田三成に通じたとして、鳥取城は東軍に攻められ開城した。
関ヶ原の戦い後、姫路城主となった池田輝政の弟長吉が6万石で入封し、この池田長吉によって近世城郭に改修された。さらに元和三年(1617)には池田輝政の孫光政が因幡・伯耆32 万5000石で入封し、城の規模が拡張されている。