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【4位】岩村城の六段壁。本丸北東面の石垣。もともとは1段の高石垣であったが、崩落を防ぐために五段の石垣が補強で築かれ、現在では六段の壁となっている。
【4位】岩村城の六段壁。本丸北東面の石垣。もともとは1段の高石垣であったが、崩落を防ぐために五段の石垣が補強で築かれ、現在では六段の壁となっている。

第4位 岩村城(岐阜県/92点)
戦国時代の山城を近世城郭へと変貌させた

 伝承では、鎌倉時代に加藤景廉の子景朝が築いたというが確かなことはわかっていない。戦国時代には、加藤氏の後裔にあたる遠山氏の居城となっていた。

 岩村は、東濃の要衝で、信濃・三河の国境にも近い。戦国時代の城主遠山景任は、信濃から進出を図る武田信玄に攻められ、織田信長の支援を受けて抵抗を続けたが病没。そのため、城は武田氏の支配下に入り、長篠の合戦後、信長が奪取している。そして、信長の家臣河尻秀隆や森長可・忠政兄弟によって改修された。

 岩村城が築かれている城山の標高は717mで、江戸時代まで存在していた山城の中では最も高い。ただし、麓からの高さは150mほどである。縄張は、頂上に本丸をおき、二之丸・八幡曲輪などを階段状に配す。本丸は櫓・多聞櫓などで囲まれるなど堅固であった。しかも、本丸の南東には出丸を設け、背後を固めている。

 江戸時代には、東濃の要衝として松平(大給)氏の居城となった。ただし、居館などは山麓に移されたため、藩庁の機能は山上の主郭部には存在していない。

 岩村城は、遠山氏時代の縄張を踏襲し、曲輪を石垣造りとしている。いわば、中世の縄張が生きている近世城郭だった。出丸まで林道が通っているが、遺構の破壊に配慮されているのも評価が高い。

岩村城の評価(週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』から)
岩村城の評価(週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』から)

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第3位 月山富田城(島根県/93点)
毛利元就も攻め落とせなかった難攻不落の城

 月山富田城は、交通アクセスが良ければ、第1位に選ばれてもおかしくない名城である。

 城は、出雲の富田に所在し、麓からの高さが150mほどの月山に築かれているため、月山富田城という。この時代、富田は水上交通が盛んで、船で中海から飯梨川をさかのぼり富田城下まで来ることができたという。山陽方面に抜ける陸上交通の要衝でもあり、出雲の中心地であった。室町時代には、戦国大名となった尼子氏の居城となる。そして、出雲・石見・因幡・伯耆など11カ国を支配する拠点となった。

 月山の山頂に主郭部があり、中腹に山中御殿や千畳敷、山麓に里御殿などを配置していた。南北1キロメートル、東西1キロメートルに及ぶ巨大な山城である。登城路は菅谷口・御 子守口・塩谷の三つが存在した。谷筋を通る登城路は、尾根に設けられた曲輪群によって守られており、いずれも山中御殿につながっていた。 山上の主郭部は、本丸・二ノ丸・三ノ丸が連郭式に配置されている。山中御殿から「七曲がり」とよばれる登城路を通らないと、この主郭部には到達できない。つまり、山中御殿を死守すれば、主郭部に侵入される恐れはなかったのである。

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2位はわずか「6年」の名城…