81年以降は、近藤真彦や中森明菜らも首位の常連となり、年間で見てもアイドル系が1位曲の7~8割(おニャン子ブームの86年は9割以上)を占めるという状況が80年代末まで続いていくわけだ。
ただ、聖子が成し遂げたのはアイドルの復権だけではない。彼女が別格なのは、ニューミュージック系と積極的にコラボして、聖子ポップスともいうべき独自の世界を作り上げ、時代を前に進めたところにある。
デビュー当初こそ、職業作家による作品をシングルにしていたが、2年目からは財津和夫、大瀧詠一、松任谷由実、細野晴臣、佐野元春、尾崎亜美といったニューミュージック系のアーティストが作曲したものに切り替えた。アルバムでも、その方向性を模索し、彼女の歌はニューミュージックのテイストも味わえる歌謡曲として高く評価されるようになる。夏と冬にリリースされるアルバムはユーミンやサザンのアルバムと同じく、リゾート向きの音楽としても支持された。それはまた、当時、若者にも浸透しつつあったカラオケや、急速に普及しつつあったウォークマンにも合うものだったのである。
なお、聖子の連続首位記録が始まった月に引退した山口百恵も、ニューミュージック系とのコラボには積極的だった。宇崎竜童に谷村新司、堀内孝雄、さだまさしらの作品をヒットさせ、アルバムではブレーク前の浜田省吾なども起用している。
が、時代的にまだ早かったことと、本人の声やキャラが和風で演歌寄りだったことから、ニューミュージックのポップな感じは取り込みきれず、旧来の歌謡曲の領域からそれほど飛び出すことはなかった。
また、聖子のライバルでもあった明菜は競合を避ける意味もあって、ラテンやフュージョンのアーティストと組んだりした。百恵同様、その声やキャラもあいまって、ニューミュージック色は薄かった印象だ。
つまり、聖子が誰よりも適任だったわけで、その資質を見抜いたのはプロデューサーの若松宗雄だ。彼女の声に惚れ込み、芸能界入りに難色を示す父親を説得してデビューさせたこの男は、70年代にキャンディーズと吉田拓郎のコラボを成功させた経験から、その路線をさらに推し進め、聖子で新たなジャンルを作り上げた。