夕方のラッシュ帯に運転された不動尊前行きの臨時15系統が発車を待つ。落日に映える兜町のビル街には証券会社が軒を連ねていた。茅場町停留所(撮影/諸河久:1962年3月28日)
夕方のラッシュ帯に運転された不動尊前行きの臨時15系統が発車を待つ。落日に映える兜町のビル街には証券会社が軒を連ねていた。茅場町停留所(撮影/諸河久:1962年3月28日)

 写真は茅場町停留所で発車を待つ臨時15系統不動尊前行きで、方向幕には「深川不動」と表示され、系統番号板の上部に白抜き文字で「臨時」のアダプターを掲示していた。停車している安全地帯は茅場町交差点の西側に位置しており、撮影の翌年、交差点東側に移設されている。背景は日本橋兜町の証券会社ビル街で「山崎證券」や「日本勧業証券」が盛業中だった。

昭和時代の風情が薫る茅場町と鎧橋

 1963年から茅場町交差点東側に移設された茅場町停留所も紹介しよう。

1963年になると前掲の茅場町停留所は茅場町交差点の東側に移設された。画面右側の低い家並が日本橋茅場町、背景の証券会社ビル街が日本橋兜町で、「日本橋」を冠した地名が現在も脈々と息づいている。茅場町停留所(撮影/諸河久:1963年7月22日)
1963年になると前掲の茅場町停留所は茅場町交差点の東側に移設された。画面右側の低い家並が日本橋茅場町、背景の証券会社ビル街が日本橋兜町で、「日本橋」を冠した地名が現在も脈々と息づいている。茅場町停留所(撮影/諸河久:1963年7月22日)

 写真は山の手の高田馬場駅前から下町の茅場町まで9406mを走って茅場町に終着した15系統の都電。都電の背景には大同証券、山崎證券、株式新聞などのビルが見える。左後方には都電千代田橋線の線名になった紅葉川を渡る千代田橋があり、その橋上には建設中の首都高速環状線の高架橋が架かっている。良き昭和時代の風情が薫る茅場町の一コマだ。

 この地に路面電車が走ったのは1904年5月で、日比谷公園と蛎殻町を結ぶ東京市街鉄道の築地線だった。開通時は茅場町交差点を北に直進、「東京証券取引所」の前を走り、日本橋川に架橋された「鎧橋」(よろいばし)を渡って蛎殻町に向かっていた。

 鎧橋の由来は平安時代の昔、奥州平定に赴く源義家がこの地で暴風雨に遭遇し、天候の回復を祈念して鎧一領を海流に沈め、水難から脱した故事に来歴している。江戸期には「鎧の渡し」として賑わった。1872年に初代の鎧橋が架橋され、1888年にプラットトラス構造の鉄橋に架け替えられた。1904年になり、路面電車が鎧橋を渡るようになった。

 最後の写真は1920年代に発行された鎧橋の絵葉書で、畏友の関田克孝氏のコレクションから拝借した。鎧橋を兜町側の南詰から撮影しており、人造着色という技法でカラー化された貴重な画像だ。鎧橋に電車が走り始めた頃は、頭上の橋名板を冠したスパンが橋幅だったが、1915年の拡幅工事で画像のような形態に変わり、架橋当初の道路との併用軌道が専用軌道に変更されている。

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関東大震災や第二次大戦の戦火に耐えた鎧橋