春の夕刻、家路を急ぐ乗客で賑わう茅場町交差点風景。交差点を左折して渋谷駅前に急ぐ9系統の都電が眼前を横切った。右端の信号塔には就業中の転轍手の姿が見える。(撮影/諸河久:1962年3月28日)
春の夕刻、家路を急ぐ乗客で賑わう茅場町交差点風景。交差点を左折して渋谷駅前に急ぐ9系統の都電が眼前を横切った。右端の信号塔には就業中の転轍手の姿が見える。(撮影/諸河久:1962年3月28日)
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 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は「日本のウォール街」といわれる兜町を巡る都電の足跡を紹介しよう。

【約60年が経ってどれだけ変わった? 現在の同じ場所や当時の貴重な写真はこちら(計5枚)】

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 1960年代の中央区茅場町交差点は都電千代田橋線に築地線が合流し、9系統(渋谷駅前~浜町中ノ橋)、15系統(高田馬場駅前~茅場町)、28系統(都庁前~錦糸町駅前)、36系統(錦糸町駅前~築地)、38系統(錦糸堀車庫前~日本橋)の五系統が行き交い、多くの都電で賑わっていた。

 都電が発着する茅場町停留所北側の兜町には株取引の要衝「東京証券取引所」が所在し、近隣には数多くの証券会社が軒を連ね「日本のウォール街」の名に恥じない株式の街を構成していた。

証券マンが帰宅を急ぐ茅場町の街角

 冒頭の写真は、茅場町停留所を後にする9系統渋谷駅前行きの都電。この9系統は一つ手前の蛎殻町(かきがらちょう)を出ると茅場橋で日本橋川を渡り、茅場町一丁目交差点を右折して千代田橋線に合流。茅場町で客扱いした後、交差点を左折して築地線に入り、銀座、日比谷方面に向かっていた。

 すでに夕刻のラッシュアワーが始まっており、画面左端の茅場町停留所は帰宅を急ぐ証券マンや多くの乗客で溢れていた。停留所の右奥には、ここで折り返す15系統高田馬場駅前行き(左)や36系統築地行き(右)の都電が写っている。茅場町界隈に営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線が開業するのは1963年2月だから、撮影時はまさに都電が通勤通学輸送の第一線を担っていた時代だった。

 画面右端に佇立する平澤金庫の看板が付いた信号塔には、就業中の転轍手が写っていた。茅場町交差点の分岐器がトロリーコンタクターによる自動転轍化される以前の貴重な一コマとなった。

60年ぶりに撮影した茅場町交差点の近景。高層オフィスビルが林立する街並みは都電が走ったことすら想像できない変貌ぶりだ。(撮影/諸河久:2021年10月23日)
60年ぶりに撮影した茅場町交差点の近景。高層オフィスビルが林立する街並みは都電が走ったことすら想像できない変貌ぶりだ。(撮影/諸河久:2021年10月23日)

 次のカットが茅場町交差点の定点撮影。約60年の歳月は生活感溢れた茅場町の街を冷徹なオフィス街に変貌させていた。旧景の信号塔の足元に交通局交通協力会の都電定期乗車券売り場があり、ここで定期乗車券を購入した記憶がある。

深川方面に臨時運行された15系統

 都電千代田橋線(大手町~永代橋)と接続する洲崎線(永代橋~東陽公園前)は、永代橋で隅田川を渡河して中央区と江東区を結ぶ主要路線で、営団地下鉄東西線の大手町~東陽町が開通する1967年9月まで都電が一手に輸送を引き受けていた。この路線には通常28・38系統の都電が通っていたが、朝夕のラッシュ時になると早稲田~不動尊前や早稲田~洲崎に臨時15系統が運転され、輸送力不足を補っていた。

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茅場町や鎧橋に昭和の風情