経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。

浜矩子/経済学者、同志社大学大学院教授
浜矩子/経済学者、同志社大学大学院教授
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 英グラスゴーで、国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議が開催された。通称COP(Conference of the Parties)26である。岸田文雄首相も参加し、首脳級会合で演説した。意気込んで臨んだ割には、火力の継続活用に固執していると見抜かれて、「化石賞」を受賞してしまった。世界の環境NGOで構成する「気候行動ネットワーク(CAN:Climate Action Network)」が、気候変動対策に消極的な国に贈る不名誉な賞だ。ごまかしはきかない。

 ごまかしという概念との関わりで、筆者には気になる日本語が一つある。地球温暖化防止のための脱炭素化を巡って、さかんに登場するようになっている。今回のCOP26に関する報道の中にも頻出した。その日本語は「実質」である。「温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする」。このように使われる。

 この場合の「実質ゼロ」は、「差し引きゼロ」の意だ。温暖化ガスの排出そのものをゼロにするという意味ではない。排出を続ける一方で、その効果を相殺する技術や資源の開発を進める。植林プロジェクトなどが典型例だ。英語では、これを「カーボン・ニュートラル」化、あるいは「ネット・ゼロ」化という。排出を完全になくすのは、「ゼロ・エミッション」化だ。

 相殺方式が悪いとは言わない。専門家たちが知恵を絞って編み出したやり方にケチをつけるつもりはない。だが、それを「実質」と称するのが、何とも気に食わない。どうしても、ごまかしを感じてしまう。「実質的には同じことだから、まぁ、いいじゃないか」というニュアンスが漂う。このようなあいまい語が、こんなにも重要なテーマに関して、何の注釈も無しに報道用語として出てくる。そのことにいら立ちを覚える。

 当面は「差し引きゼロ」を目指す。だが、最終ゴールはあくまでも「排出ゼロ」だ。この決意を「実質」という言葉が薄めてしまうように思う。岸田氏の演説の中には、「カーボン・ニュートラル」と「ゼロ・エミッション」の二つが出てきた。彼には、両者の区別がついているだろうか。「実質同じ」だと思っているかもしれない。

浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演

AERA 2021年11月15日号