FAの人的補償第1号となった日本ハム時代の川辺忠義 (c)朝日新聞社
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 毎年シーズンオフになると、大物選手のFA宣言が話題になるが、その一方で、彼らの移籍に伴い、人的補償選手としてチームを出ていく者もいる。

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 第1号は、1995年オフ、日本ハム・河野博文のFA移籍に伴い、巨人から日本ハムに移籍した193センチの長身右腕・川辺忠義だ。

 秋田工時代の86年夏に甲子園に出場し、川崎製鉄時代も都市対抗などで活躍。そんな実績を買われ、90年にドラフト2位で巨人に入団したが、6年間1軍登板なし。2軍では94、95年と2年連続で6勝を挙げるなど、まずまずの結果を出していたが、当時の1軍は先発、リリーフ陣ともに人材豊富で、まったく出番がなかった。このまま巨人に残っていたら、1軍登板ゼロで野球人生が終わっていた可能性もあった。

 だが、日本ハムへの移籍は、吉と出る。

 翌96年5月12日の近鉄戦、先発予定だった西崎幸広が風邪でダウンしたことから、代役として、川辺にプロ7年目にして1軍初登板初先発のチャンスが回ってきた。

 これまで2軍で100試合以上も投げてきた川辺にとって、デーゲームは相性が良かったのか、7回途中2失点の好投。打線の援護なく負け投手になったが、「あれだけ投げれば十分。次が楽しみだね」と上田利治監督を喜ばせた。

 そして5月19日のロッテ戦、再び先発に指名された川辺は、初回を除いて毎回走者を出しながらも、要所を締めて6回途中まで2失点と試合をつくり、うれしいプロ初勝利。「正直なところ、『プロではもう勝てないかな』と思うこともありました。7年ですか。長かったですね」と感慨深げだった。

 同年は17試合に登板し、1勝3敗、防御率4.89の成績を残した川辺は、翌97年、1軍登板なしに終わり、現役を引退したが、新天地でこれまでの苦労が報われたという意味では、「あって良かった人的補償」と言えそうだ。

 人的補償で移籍した投手の初年度で最多の7勝を記録したのが、02年のオリックス・ユウキだ。

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