オリックス時代の中村紀洋
オリックス時代の中村紀洋
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 プロ野球選手の年俸は、活躍度に応じて上昇カーブを描いていくが、ケガなどで活躍できなかったシーズンは、大物選手といえどもダウンは免れず、時には野球協約で定められている減額制限(25%。年俸1億円以上の選手は40%)を超える大幅ダウンの憂き目にあうこともある。そんな球史に残る大減俸を紹介する(金額はいずれも推定)。

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 前年の2億円から98%ダウンの400万円という超ド級の大減俸を味わったのが、中村紀洋だ。

 2006年オフ、オリックスとの年俸交渉で左手首の故障が公傷と認められず、60%の減額提示に納得できない中村は、翌07年1月まで6回の交渉を行ったが合意に達せず、ついに自由契約となった。

 中村は他球団から声がかかるのを待ちながら、孤独な自主トレを続けたあと、2月12日から中日のテスト生としてキャンプに参加。同25日、合格が決まり、育成選手として年俸400万円から再スタートすることになった。

「やっとユニホームが着られるだけでうれしい。野球小僧として頑張りたい」と意欲を新たにした中村だったが、これだけの大減俸となると、税金対策もハンパではない。同年に納める所得税は、前年の2億円をベースに約40%の8000万円程度となるため、「税金が心配で。蓄えないですよ。何が何でも1軍に上がらないといけない」と必死だった(その後、3月23日に契約金と出来高なしの年俸600万円で支配下選手契約)。

 同年、中村が打率.293、20本塁打、79打点と結果を出し、チームの日本一に貢献したのは、“野球小僧効果”に加えて、「何とかして税金を払わなければ」という切羽詰まった事情も大きく後押ししたと言えなくもない。

 同様のパターンでは、17年オフにソフトバンク退団後、中日にテスト入団した松坂大輔も、4億円から96%ダウンの年俸1500万円と大減俸を味わっている。

 一方、所属球団は変わっていないのに、契約更改で80%を超える大減俸を受けた選手も少なくない。

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“大減俸”を提示された巨人の2人