【黒幕説/検証 6】毛利輝元
■備中高松城開城は両軍の出来レースだった?
安芸(広島県)の吉田郡山城本拠とする毛利氏は、元就の代に中国地方を制覇し、10カ国を領する大大名へと成長した。本能寺の変当時、元就の孫の輝元は、織田家の中国方面軍を率いる羽柴秀吉と相対していた。輝元は天正四年(1576)三月に「毛利の両川」と呼ばれる吉川元春、小早川隆景と会談し、信長の攻勢を跳ね返すため、足利義昭を奉じて山陽・山陰、そして瀬戸内海の三道を併進して京に進撃する方針を立てたという。
しかし、すでに天正十年の段階では三木城、鳥取城などが秀吉に落とされ、大坂本願寺も降伏。備中高松城は秀吉の水攻めで落城の危機に瀕していた。そこで本能寺の変報を知った秀吉は、明智光秀を討つため、本能寺の件を隠して毛利方と和睦交渉を進め、高松城将の清水宗治が切腹することで開城が決まった。
この和睦交渉がスムーズに済んだことが、秀吉の勝利を導き出したことになる。そのため、そもそも本能寺の変は毛利輝元が光秀や秀吉と結託して仕組んだと考える毛利輝元黒幕説が生まれたのだ。毛利方は、和睦締結後に本能寺の変の顛末を知ったが、陣を払って帰還を図る秀吉軍を追撃しなかった。これも、「出来レース」であったからこそと考えるのが、輝元黒幕説の立場だ。
しかし、毛利方の実情は、高松城南方の日幡城を守る上原元将が背くなど、各地で「勝ち目なし」と見た諸勢力が反旗を翻し、組織崩壊を起こしていた。秀吉を追撃する余裕などなかったのである。天下人となった秀吉と、毛利の国境交渉はその後も続いた。輝元が光秀とひそかに交渉をしていたとの明確な証拠も見つかっていない。「毛利輝元黒幕説」も、やはり臆説の域を出ないだろう。
(文/安田清人)