本能寺の変の背後に、光秀を教唆した黒幕は存在したのか?「戦国最大のミステリー」として、古今の歴史家や市井の歴史ファンを悩ませてきたテーマといえよう。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』では、状況証拠、動機、事件の結果得た利益等から「容疑者」を多角的に考察した。数回に分けて「黒幕」を検証する。今回は徳川家康と毛利輝元の黒幕説だ。
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【黒幕説/検証 5】徳川家康
■妻子を殺された恨みをはらすために光秀を…?
徳川家康黒幕説も、古くから存在した。秀吉と同じく、結果から見れば家康も信長の「くびき」から逃れて、のちに天下人となることができたからである。
カギとなるのは、家康がかつて信長の命で正室の築山殿と嫡子の岡崎信康を死に追いやったとされる過去である。家康は積年の恨みを晴らすため、光秀を唆して信長殺害に走らせたとする解釈だ。「羽柴秀吉黒幕説」の項目に記したように信長が光秀を使って家康を謀殺しようとしたところ、光秀が裏切って家康と手を結び、逆に信長を殺害したとする説も、家康黒幕説と通じる部分がある。
織田政権にとって最大にして東日本での唯一の脅威であった武田氏を天正十年(1582)に滅亡させたことで、すでに信長にとって家康は「用済み」だったということが前提となる。光秀と家康は、ともに信長によって窮地に追い込まれていたので信長を殺したということになるのだが、光秀はともかく、家康が危機的な状況にあったとする証拠は見当たらず、いささか苦しい解釈となっている。明智勢の兵が書き残した『本城惣右衛門覚書』には、挙兵当初、家康を討つのが目的だと思ったとの回想が書かれているが、当時の政治情勢に通じていたとは思えない一兵卒の、しかも事件後20年以上も後の回想であるので、確かな証拠とは言えないだろう。
事件後、家康はわずかな手勢を引き連れて「伊賀越え」と呼ばれる隠密行動をとり、命からがら本国の三河に引き上げている。もし家康が黒幕であるならば、このような危険を冒してまで信長暗殺を教唆するだろうか。 家康が信長に恨みを抱いていた可能性はある。しかし、岡崎信康を支える家臣団と家康が率いる家臣団とが対立し、それが信康事件を招いたとの説もある。
いずれにせよ、家康黒幕説も決め手を欠く憶測と言えるだろう。
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