1934年に日本車輛で製造された古豪1000型都電と1963年竣工の斬新な三愛ドリームセンターのアンバランスな出合いの一瞬。銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年10月21日)
1934年に日本車輛で製造された古豪1000型都電と1963年竣工の斬新な三愛ドリームセンターのアンバランスな出合いの一瞬。銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年10月21日)

「和光」と並ぶ銀座の顔

 次の写真は銀座四丁目停留所で乗降扱い中の4系統銀座二丁目行きの都電。お隣の停留所が終点だから、ここからの乗車は皆無と思われる。120サイズのコダック・エクタクロームXを装填したマミヤC33で撮影した高画質のカラーポジ作品だ。写真の1038号は前出の1040号と共に1000型では希少となったKB系ブリル台車を装備しており、戦後は神明町車庫の配置で40系統に充当され、銀座に顔を出していた。1966年に目黒車庫に転属して、銀座線廃止まで4・5系統に運用された。

 背景となった地上9階建ての三愛ドリームセンター(通称銀座三愛ビル)は1963年1月の竣工で、「リコー」の創始者である市村清氏が考案した建物全体を総ガラス化した円筒型の建築物だ。そのユニークな外観は四丁目交差点を挟んで対面する和光本館と共に銀座を代表するランドマークとなった。

 写真を撮影した1967年当時は、三菱のシンボルである「スリーダイヤマーク」の屋上広告塔と共に、4階から9階までを三菱電機のショールームとして使用していた。四丁目交差点にデビュー以来約60年の歳月を経たレジェンドとして親しまれ、2003年には「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定された。

改装工事中の銀座三越前で行き交う1系統の品川駅前行きと上野駅前行きの都電。頭上には抜けるような初冬の青空が広がっていた。銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年12月6日)
改装工事中の銀座三越前で行き交う1系統の品川駅前行きと上野駅前行きの都電。頭上には抜けるような初冬の青空が広がっていた。銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年12月6日)

 三愛ドリームセンター前の歩道から撮影した1系統の都電が行き交うシーンが次のカットだ。画面左側の銀座四丁目停留所を発車する都電は上野駅前行きだが、乗務員のミスなのだろうか、後部方向幕に三田の文字が判読できる。背景には銀座三越と銀座松屋の二大デパートが写っており、手前の銀座三越は翌1968年のリニューアルオープンに向けて、地上8階、地下6階建てに改築中だった。

銀座一丁目を走る希少車両

 筆者の学生時代には、新しいカメラやレンズ、フィルムなどを手にすると、銀座通りに出かけて試写していた。被写体は頻繁にやってくる都電だった。

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