1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は1967年12月9日限りで姿を消した銀座通り(現・中央通り)を走る都電の姿をカラー作品で回顧しよう。
【55年前の銀座がこんなにも鮮やかに! 当時の貴重なカラー写真(計4枚)はこちら】
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銀座通りを走る都電は1967年12月10日に廃止が決まった。
最後の雄姿を高画質のカラーポジフィルムで残そうと一念発起した。大学生のアルバイト代が時給100円だった時代、35mmサイズ36枚撮り1本が1200円もする高価な「コダック・エクタクロームX」フィルムを何本か奮発し、人や車で輻輳する師走の銀座通りに赴いた――。
そもそも都電路線の縮小は、1966年5月の志村・板橋線廃止以来、小康状態が続いていた。この間、東京都は交通事業再建計画を策定して、都電廃止計画を監督官庁に申請していた。1967年8月、件の再建計画を自治大臣(現・総務大臣)が承認し、都電とトロリーバスの全線廃止が決定された。
都電の廃止承認による第一次撤去計画が1967年12月10日に実施されることになった。これにより、都心部の本通線(通称銀座線)に係る運転系統の1・4・40の三系統が廃止、22系統が短縮され、銀座通りを64年間走り続けた路面電車は姿を消した。
都電を「ご贔屓」の女性たち
冒頭の写真は銀座四丁目停留所先端から200mm望遠レンズを装填したアサヒペンタックスSVで撮影。隣接する銀座二丁目で折り返してきた4系統五反田駅前行き都電の前面にフォーカスしている。銀座通りは師走の繁忙期とあって、溢れんばかりの自動車群で埋め尽くされ、安全地帯からの撮影が功を奏した。
画面左側の京橋方面行き停留所では、廃止三日前というのに、いつも通りの乗客の列が都電の到着を待っていた。
銀座の乗客のことを、作家・獅子文六(1893~1969)は著書『ちんちん電車』の文中で、「乗客の側からいっても、銀座の安全地帯に立って、都電を待つというのは、何か間の抜けた趣があって、せめてバスにでもという気になるが、それは男性の心理らしい。銀座の都電利用者は、割合い女が多いのである。女性は銀座で買物をする。デパートも名店も多い。その買物の包みを抱えて、乗込むには、バスよりも、地下鉄よりも、都電がラクなのである。つまり、空いているからである。そして、少しぐらい“滞留”が多くても、女性はあまり気にしないらしい」(原文ママ)と、綴っている。銀座の都電は当時のご婦人方のご贔屓(ひいき)だったようだ。