「母は若くして結婚していて、私が生まれてすぐの頃、父が病死しました。その時は日本に住んでいたのですが、父の死後、母はバングラデシュに戻り私を祖母と共に育てながら大学院に通い、働きました」
シャラさん曰く、若くして配偶者を亡くしているにもかかわらず、再婚しない母の存在はバングラデシュでは特殊で、そんな家族を好奇の目で見る人もいたという。
「バングラデシュでは、中東のイスラム教社会ほどの強制力はなくても、女性だと遺産相続ができないなど、様々なイスラム法をベースとした社会があり、そこには男尊女卑的な思想が蔓延しています。母は勉強がとても出来たにも関わらず、男性と女性で与えられる機会の差が大きいことを幼い頃から経験していたようで、その自分の経験を踏まえ、この国で娘を育てたくないと考え、海外で働けるよう大学院に行くなどして頑張ったんだと思います」
日本語学校の存在に驚愕
その後シャラさんの母は東京で仕事を見つけ、移住したのは東京都北区王子だった。その頃はまだ小さかったがバングラデシュ出身者が多く暮らすコミュニティーがあり、近くには今や「リトル・ダッカ」とも呼ばれる東十条がある。
だが、こうした移民コミュニティーとは距離のある幼少期を過ごした。シャラさんが言う。
「すべてのコミュニティーがそうではないと思いますが、移民コミュニティーは逆にローカライズされて、保守的になりがちです。世界中のどんな場所のどんな人種の移民コミュニティーでも同じ構造が起きているとは思います。そこでは専業主婦の方も多く、彼らや彼女たちにとっては当時バングラデシュのような発展途上国出身の女が女手一つで、異国で子供を育てるというのは異質な存在に映っていたと思います」
「母は日本語学校の存在を知らず、私は1ミリも日本語の知識がないまま地元王子の公立小学校に入学しました」
日本語学校の存在は1年後に転校してきたフィリピンとハーフのクラスメイトに教えてもらった。
「その子が毎日午後から学校に来るから、午前中は何をしているのか聞いたら日本語学校に通ってるって。そんなのあったの!?と驚きました」
周りのクラスメイトとは顔つきや肌の色も違う。それでも、激変した環境に戸惑うことはなかった。
「最初から『みんなと一緒』という感覚があったとしたら、日本に来たときに反抗心を持ったと思います。どうして私だけ違う扱いを受けるんだろう?とか。でも幸か不幸か、私はバングラデシュでも東京でも、周りとは違うバックボーンだったから、東京で戸惑うことも憤ることもなく馴染めたのかもしれません」
自分の色のファンデーションがない
母一人子一人の生活。外国人として日本で暮らす日々だったが、いじめられることもなかったし、友達もできた。それでも、自分自身を取り巻くぼんやりとした違和感は抱えたままだった。