志村坂下停留所界隈の今昔対比
筆者が初めて志村線を訪れたのは1964年の春だった。前年の12月に新宿駅前と荻窪駅前を結ぶ杉並線が廃止されたが、次に俎上に載せられたのが志村線だった。訪問時は終点の志村橋から志村坂上までをカメラハイキングしており、志村橋行きの41系統の都電を志村坂下停留所で撮影したのが次のカットだ。
この写真を観察すると、巣鴨車庫前行きの都電を待つ和装の婦人が記録されており、今日では稀有となってしまった光景だ。画面左側に視線を転ずると、都電利用客に呼応した電機店、居酒屋、洋傘店、洋食店、文具店、日本蕎麦店などが軒を連ね、生活感に溢れる街並みだった。
1983年に大正出版から都電の今昔対比写真集である「都電の消えた街」を上梓した。その山手編に前掲の志村坂下停留所の今昔対比を掲載した。1964年の撮影から19年を経た1983年の景観が次のカットで、中山道に横断歩道橋が架設されたりしているが、旧景に写る多くの商店が盛業中だった。
共著者として健筆をふるわれた林順信さん(1928~2005)は、旧画面に見られる「大衆向 洋食 雨月」(新画面では「中華 雨月」になっている)の女将さんが語った懐想談話を記述されている。都電客に愛された飲食店の心情が伝わるので、以下に抜粋した。
「うちがここにお店を出したのが26年前の昭和32年だった。おとうさんが谷中清水町の雨月荘で仕事をしていたから雨月と名乗ったんです。以前はお店の真ん前が都電の停留所だったから、お客さんも良く寄ってくれたんですよ。今は地下鉄もそれたので不便だし、都電があった頃が懐かしいですよ」
40年ぶりの志村坂下は大変貌
次のカットが、約40年ぶりに訪れた志村坂下の一コマで、今昔対比の基本である撮影定点探しに苦労するほど、中山道と交差する環状八号線が拡幅されてからの景観は大きく変貌を遂げていた。
1983年撮影の画面右端に「牛黄清泌元」の看板が写っているのが定点探査の決め手となった。画面右端に盛業中の「喜松堂漢方薬店」の方に1983年の旧景を確認していただくと、「当時、店の前に出していた看板です」と嬉しい答えが返ってきた。