喜松堂の近隣で行き合った地元の大野吉明さんから、1988年6月の環状八号線拡幅で立退かれた店舗の消息を伺った。1964年の画面に写る雨月飲食店から道路(拡幅前の環状八号線)を隔てた文寿堂文具店とお隣の三原屋蕎麦店までが立退きの対象になったそうだ。現況の画面左側店舗のうち5軒目の植え込みが、雨月の左隣りの洋傘店跡ということも教えていただいた。

「コビト前」の別称

 最後の写真が、41系統の巣鴨車庫前行きと志村橋行きの都電の行き違いをタイミングよく捉えた一コマで、長後町一丁目停留所からの撮影だ。中山道を下る第二世代のトヨペット・マスターラインがカメラを構えた筆者の脇を快調に駆け抜けていった。

志村坂上から志村坂を下り、志村橋へと続く長後町一丁目で行き交う41系統の巣鴨駅前行きと志村橋行きの都電。頭上には路面電車らしからぬシンプルカテナリー仕様の架線が架設されていた。(撮影/諸河久:1964年4月5日)
志村坂上から志村坂を下り、志村橋へと続く長後町一丁目で行き交う41系統の巣鴨駅前行きと志村橋行きの都電。頭上には路面電車らしからぬシンプルカテナリー仕様の架線が架設されていた。(撮影/諸河久:1964年4月5日)

 安全地帯の電照式停留所掲示塔の脇には「コビト前」の広告が大きく掲出されている。都電の本通線に乗務する車掌は「次は室町一丁目 三越前です」と、三越本店の所在を知らせる降車案内していたが、志村線では「次は長後町一丁目 コビト前です」と、広告主に斟酌した別称案内をしたかどうか、今となっては確認できない。

「コビト」とは、1956年に創立した菓子メーカーである東京渡辺製菓のブランドの一つで、1965年に社名を「コビト」に変更している。その製菓工場が画面右側に所在していた。

 所蔵する1964年当時の都電志村線と旧町名地図も掲載する。都電志村線が廃止された1966年には板橋区の住居表示が変更され、長後町一丁目は坂下一丁目となり、停留所名にもなった長後町の町名は伝説となった。

1964年当時の都電志村線と沿線旧町名地図(所蔵:諸河久)
1964年当時の都電志村線と沿線旧町名地図(所蔵:諸河久)

■撮影:1966年5月28日

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