1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は都電最後の新設系統となった41系統の沿線から、志村坂を巡るエピソードや今昔沿線対比を紹介する。
【当時の貴重な写真や、いまの志村坂下の写真はこちら(計5枚)】
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志村坂を走る、都電志村線。
そう言われたところで、東京都内にお住まいの人でなければピンと来ないかもしれない。
巣鴨から志村にかけて終始中山道(国道17号線)を走る都電板橋・志村線は、1955年6月、当時の志村線の終点・志村(延伸時に志村坂上に改称)から北上して志村橋までの延伸区間1919mが開通。志村橋~巣鴨車庫前を結ぶ41系統が新設された。41系統は、いわば都電最後の新設系統。廃止されるまでわずか11年であったが、路線の延伸に力を注いだ沿線住民から愛された系統だった。
志村坂を上る最終日の装飾電車
冒頭の写真は志村坂下から志村坂上に続く最急37パーミルの志村坂を上る41系統巣鴨車庫前行きの装飾電車。沿道には多数の地元民が参集し、戦時中の志村~下板橋延伸時の軌道敷設に勤労奉仕したという古老も名残を惜しんでいた。ちなみに、装飾電車に抜擢されたのは巣鴨車庫配置の6100号で、志村・板橋線廃止後は神明町車庫に転属し、同車庫が廃止された1971年3月まで使われた。
都営地下鉄6号線(現・三田線)の建設にともなって、志村・板橋線を走る41系統(志村橋~巣鴨車庫前)と18系統(志村坂上~神田橋)の二系統が廃止されることになり、運転最終日の1966年5月28日には41系統の装飾電車が終日運転された。
志村線が敷設された中山道は第二次大戦中に軍事拡幅された新道で、旧道は志村坂上交差点から北西側に分岐している。都電の背景は「曹洞宗・妙亀山總泉寺」の伽藍で、鎌倉時代の開創といわれる古刹だ。1923年の関東大震災まで浅草橋場に所在したが、震災で罹災後、板橋小豆沢(あずさわ)の現在地に移転している。