山梨学院大の中村祐二
山梨学院大の中村祐二
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 今年で98回目を迎えた箱根駅伝。この日のために鍛錬を重ねてきたランナーたちの快走や抜きつ抜かれつの激闘が演じられる一方で、時にはまさかのアクシデントが発生することもある。過去の大会から往路のエース区間と準エース区間で起きた悲劇を振り返ってみよう。

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 学生ナンバーワンランナーが、思わぬ悪夢に見舞われたのが、2002年の第78回大会だ。

 前年2区で区間2位の力走を見せた法大のエース・徳本一善は、4年時はトラックで日本人学生に負け知らず。「最後の年に優勝を」と燃えていた。

 そして迎えたレース当日、6位で襷を受け取った徳本はリズミカルなフォームで走り出したが、5キロ過ぎで亜大・前田和之のスパートに合わせてペースを上げた瞬間、「パチッと音がした」。

 右足に激痛が走り、トレードマークのサングラスで覆っていても、苦悶の表情は隠せない。一度立ち止まってふくらはぎをさすり、再び走りだしたが、思うように進めず、フォームもバラバラになった。

 成田道彦監督が審判車を降りて止めようとしたが、徳本は制止を振り切って、痛みをこらえながら必死に走りつづける。

 1.9キロにわたって「やめろ」「大丈夫です」のやり取りが繰り返された末、ついに成田監督は「彼は将来のある選手だから、あんな状態で走らせるわけにいかない」と断を下し、7.3キロ地点でレースを中止させた。

 右ふくらはぎの肉離れで全治3週間と診断された徳本は「考えられない。あり得ない。調子が良過ぎて(故障の)予感があったので、少し抑えていったんですが。最後(の箱根)なので、どうしても走りたかった……」と涙ぐんだ。

 本番直前の12月29日にアキレス腱の違和感があり、2日間休養したあと、状態が上向きになったので、出場を決めたことがアダとなった。

 どんなに実績のあるランナーでも、箱根のエース区間を万全ではない状態で走り切るのは、容易ではないと改めて痛感させられる一事だった。

 あれから20年。駿河台大監督に就任した徳本は、予選会を8位で通過して悲願の初出場を実現。選手時代に計4度走った箱根で、今度は指導者として采配を振るうことになった。

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