放出決定後、6球団が手を挙げ、前代未聞の公開トレードになったのが、97年1月15日に発表された近鉄・石井浩郎と巨人・石毛博史、吉岡佑弐(※吉岡雄二の当時の登録名)の1対2トレードだ。

 前年、左手首の骨折で出場わずか2試合に終わった石井は11月15日、球団との下交渉で60パーセントダウンの年俸5000万円プラス出来高(推定)の提示に、「25パーセントを超えるダウンは辞めろと言っているようなもの」と激怒。その後、2度にわたる交渉で50パーセントダウンまで修正されたが、石井は納得せず、事実上放出が決まる。

 あくまで自由契約を希望する石井に対し、主砲をタダ獲りされたくない球団側は12月16日、トレードによる放出を通告した。

 ヤクルト西武、横浜、ロッテ、ダイエー、巨人が参戦を表明したが、交換相手をめぐり、交渉は難航。先発投手と二遊間を守れる内野手が欲しい近鉄は、石毛と吉岡の名を挙げた巨人に「話にならない」と難色を示し、石井丈裕と橋本武広の両獲りを希望した西武には「1対1で」と突っぱねられた。

 その後、横浜の三浦大輔、進藤達哉との交換がまとまりかけたが、最終的に横浜側が「編成上、あの世代(20代前半)の投手は出せない」と拒否し、これまたご破算に。

 これらのやり取りが、新聞などを通じて毎日公開されるのだから、俎上に載せられた選手は、さぞかしやきもきさせられたことだろう。

 そして、前述のとおり、石毛、吉岡との交換で巨人移籍が決定。北九州で自主トレ中だった石井は「2カ月は長かった。ようやく決まり、スッキリした。(巨人では)自分の能力を出すだけ」と新天地での復活を誓った。

 だが、移籍後も故障に悩まされ、近鉄時代の輝きを取り戻すことができないまま、3年後にロッテへ。これに対し、巨人時代に1軍でほとんど実績のなかった吉岡は、近鉄で2年連続26本塁打を記録するなど主砲に成長。トレードによって大きく花開いた。

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“駆け込みトレード”は成功例が多い?