当時、手紙をよく書いたという。
「日本人のこういうものなんですけれど、写真を撮らせてもらえないか、と。正面玄関のドアをノックした。どんなに大変な思いをしてもきちんと手続きを踏んで、撮影や販売の許可を得るのがぼくのポリシー」
ところが、撮影は思うようには進まなかった。名門コースからは門前払いの返事ばかり。
「有名なレストランじゃないですけれど、一見さんお断りの『スノッブ』な世界。すごく厳しいルールのあるメンバーシップコースばかりで、もう、一歩たりとも入れない。プレイすることはもちろん、写真を撮ることはさらに難しかった」
■「ミヤモトさん、サインすると、パワーを持ちますよ」
試合とコースの両方を追い始めたころ、「すごく貧乏だった」と、宮本さんは振り返る。
「当然のことながら、会社からお金をもらって取材に行くと、好きなようには撮れない。それが自分の性格には合わなかった。だから、全部、自分の費用で行った。コツコツと、1枚撮って、1枚売るという生活をしていた」
そんな宮本さんに転機が訪れたのは2001年。ひょんなきっかけから当時世界一といわれていた「ペブルビーチゴルフリンクス」(カリフォルニア州)のオフィシャルフォトグラファーとなるのだ。
「同時多発テロ事件で、飛行機が飛ばなくなってしまい、撮影現場にたどり着けなくなってしまった。それで、予定していた3週間分の仕事がとんでしまった」
当時、宮本さんはロサンゼルスを拠点に活動していた。
「暇になったものだから、それまでに撮影したフィルムをプリントして、趣味で買いためてきた古いアルバムに貼ったんです。そうしたら、すごくゴージャスな写真集のようなものができた」
誰かに見てほしいと思った宮本さんはそれをペブルビーチに送った。「会ったこともない人に、見てくださいって」。
すると、すぐに電話がかかってきた。「『あなたにすぐ会いたい』って、言うんです」。
ロスから7時間、車を飛ばしてペブルビーチに着くと、いきなり「うちと契約しましょう」という話になった。
しかし、宮本さんは契約書へのサインを躊躇した。条件がかなり厳しかったのだ。すると、こう、殺し文句が。
「『ミヤモトさん、それにサインすると、パワーを持ちますよ』って。それは、どういうことなんだろう、と思いながら、恐る恐るサインした」
■1秒でも早く田舎を出たかった
宮本さんはすぐに「パワー」の意味を理解した。「ペブルビーチ・オフィシャルフォトグラファー」の肩書の威力は絶大だった。「どんなコースでも『ぜひ撮ってください』と。でも、そうなるまでにすごく時間がかかりましたね」。
以後、宮本さんは世界中のコースに思う存分、足を運ぶ一方、「日本のコースはまともに見ずにアメリカに来てしまった」と、当時の自分を振り返る。
「日本のよさなんか、最初のころは分からなかったんですよ」