だが、30歳になった84年、「早めに野球に見切りをつけて、第2の人生へ進もう」と考え、同年限りで現役を引退して居酒屋を始めることになった。
当時就任1年目の王監督にその決意を告げると、思いがけず優しい言葉が返ってきた。
「これから練習に出なくていいから、開店準備に専念しなさい」。
指揮官の格別の配慮のお陰で準備も順調に進み、引退とほぼ同時期の同年10月に「護国寺なかい」をオープンさせることができた。
元プロ野球選手の飲食店は、雑誌の企画でよく取り上げられる。筆者も20年間で3度にわたって中井氏の店に取材に行った。
初めは現役時代の「中井選手」のイメージそのままだった風貌も、回を重ねるごとに居酒屋オーナーとしての貫禄が備わり、3度目の取材では「最近は僕が野球選手だったことを知らないお客さんも増えました」と苦笑するほど、セカンドキャリアが板についていた。
そして、3度の取材を通じて、中井氏が繰り返し強調していたのは、開店時に便宜を図ってくれた王監督への深い感謝の念だった。店が長続きしたのは、20年以上経っても初心を忘れずにいた律義さも、大きな理由だったように思えてならない。
中井氏は14年8月に他界したが、王監督や開店に際して協力を惜しまなかったチーム関係者に終生感謝していたことだろう。
大トリはやはりこの人、“親分”の異名をとった日本ハム・大沢啓二監督だ。
人情家で知られる大沢親分だが、数あるエピソードの中でも出色なのは、かつてマウンドでポカリと殴りつけた対戦相手の投手に入団テストを受けさせた話だ。
76年6月17日の阪急戦、阪急の先発・竹村一義は、ウイリアムスに危険球を投じたあと、次打者・上垣内誠にも顔面すれすれに投球し、避けきれなかった左手に死球を与えた。
ウイリアムスのときに「今度やったら、オレがお前のところに行くぞ」と釘を刺していた大沢監督は、ベンチから猛烈な勢いで飛び出してくると、竹村の後方からポカリと強烈な一撃をお見舞いした。「可愛い子分に2度までも危ない球を投げるとは許せねえ」というわけだ。