■「ぼくの30年間の行動はパンク」
あれから20年以上がたった。
平間さんは08年、故郷の町を写真で盛り上げようと、「塩竃フォトフェスティバル」を立ち上げた。
しかし、東日本大震災の津波は町を押し流した。平間さんは復興支援に奔走するうちに「PTSD、ひどいパニック障害になってしまった」。1年ほど自宅療養を余儀なくされた。
それを乗り越え、東京世田谷区三宿に平間写真館をオープンしたのは15年。
今回、平間さんと音楽とのつながりを改めて聞くと、中学3年のとき、同級生と「ディープパープル」のコピーバンド、「チープパープル」を結成し、なんと、いまも活動を続けているという。「もう、結成40何年です」。
「ただ、ディープパープルが大好きだったのは一瞬で、すぐにパンクの世界に入った。それをずっと追い求めてきた感じです」
パンクロックは単に好き、というだけにとどまらない。
「ぼくに人生とって、パンクの存在は大きい。既成のものを壊して、新しい価値観をつくる。そういう意味では、ぼくの写真の作風の変遷や、30年間の行動は、まさに、パンク的だと思っています。自分がやってきたことを否定して、次に移行する。その流れがこの図録のなかにはっきりと表れています」
そのいちばんの原動力となったのは、「町を捨てたこと」と漏らす。
「塩竃を出たかった。こんな町にいたら、自分は腐ってしまうと思った。東京はパラダイス、地元は最悪って、よくあるパターンです(笑)」
■有名になりたい、外車に乗りたい
しかし、82年に上京し、日大芸術学部写真学科に入学したのは、「ここに行っておけば、誰も文句は言わないだろう、くらいの気持ち」でしかなかった。卒業に必要な最低限の授業だけ出て、映画研究会に没入した。
「真面目にやる気はまったくなかったですね。とにかく、写真学科とは関わりたくなかった」
大学卒業後は地元に戻らず、メディアで活躍する道を選んだ。
「実家が写真館だったこともあると思うんですが、ぼくは若いころ、『写真をやっている人』に対して、あまり好意を持っていなかった。なんか真面目で暗い感じで……。自分はそういう人たちとは違うんだ、みたいな意識があった。それで、派手なかっこうをしたり、ふざけたりしていた」
大手写真制作プロダクションに就職したものの、製品撮影の毎日。「自分が思い描いていたものとはだいぶ違った」。3カ月で辞めた。
「あのころ思っていたのは、広告や雑誌の世界でカッコいい写真が撮りたいとか、有名になりたいとか、外車に乗りたいとか。ほんとうに雑なイメージですね。そんな気持ちで通用するわけがない」