■「ぼろぼろな状態なんで、すみません」
平間さんは1990年、写真家・伊島薫さんの助手をへて独立すると、試みとしてモデルといっしょに動きながらシャッターを切りまくった。それによって、いつもとは違うモデルの表情を引き出そうとした。
そんな作品をまとめた写真集『MOTOR DRIVE』(95年、光琳社出版)は注目を浴び、一躍、超人気の写真家となっていく。
筆者が平間さんと初めて出会ったのはそのころで、強烈な印象が脳裏に焼きついた。
東京・原宿の事務所に現れた平間さんは無言だった。しばらくして、口をわずかに開くと「いまはぼろぼろな状態なんで、すみません」と、無表情に言った。疲れ切って、抜け殻のような姿だった。
この日は朝から6時間かけてタワーレコードのポスター用にGLAYのベーシスト、JIROを撮影し、事務所に戻ってきたばかりだった。だが、この後も渋谷でカタログの表紙撮影が待っている。帰りは夜中になるが、それが普段の生活という。
「ぼくの仕事はタレントさんの予定に合わせ分刻みで進みます。だから限られた時間内にどれだけクオリティーの高い写真が撮れるか、いつも試されている」
■「ぼくにはアマチュア時代がない」
このとき、平間さんが持ち帰った撮影機材のなかに見慣れない細長いアルミケースがあった。
「ああ、これですか、CDJです」
CDミキサーとでもいえばよいか。これに音楽CDを入れ、自分でリズムなどをアレンジし、スタジオで流しながら撮るのだという。
「スタジオにCDJを持っていくなんて、世界中探してもぼくぐらいじゃないかな。みんなで楽しみながら撮るんですよ。写真というのは撮るのも見るのもエンターテインメントだと思うから」
しかし、平間さんが語る生き生きした撮影現場の風景と、目の前に座る本人の表情との落差は激しかった。
「撮影は決して簡単ではないし、失敗は許されない」
ストレスがたまり、肝臓を壊したという。それ以上に深刻だったのは、「撮影現場で入ったスイッチが切れなくなった」こと。ハイな状態が続いて眠れなくなった。鍼やマッサージに通い、緊張を解きほぐす日々が続いた。
それでもなお、「現場では相手を楽しませ、満足して帰ってもらおう」と気を使う。それは当時、宮城県塩竈市で営業写真館を営んでいた父、平間新さんの影響ではないか、という。
「ぼくにはアマチュア時代がないんです。中学生のときに仕事を任されて、いやいや幼稚園の運動会を撮りに行った」
そんな昔話を口にすると、「もういいですか?」と立ち上がり、青いポルシェに乗って、次の撮影現場へ消えていった。