哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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教育を語る時の語彙(ごい)にはその時代における基幹産業の用語が混入するという仮説を思いついたので、その話を書く。
ある時期から教育を語る言葉づかいに工学的比喩が増えた。気がついたのは、1990年代の終わり頃のことである。シラバスが導入される時に、これは授業についての仕様書のようなものだと説明された。どういう材料を使って、どういう手順で、どういう教育サービスを提供するのか明記するのだそうである。それから「PDCAサイクルを回す」とか「学士号の質保証」とかいう工学的語彙が書類に頻出するようになった。
私が子どもの頃はそんな言葉づかいで教育を語る人は一人もいなかった。当時、学校教育は農作物を育てることに類比されて理解されていたからである。「学級通信」というものを教師が作成していたが、そのタイトルは多くが植物由来のものだった。「めばえ」とか「わかば」とか「あすなろ」とか。おそらく教師たちは子どもたちもまた農作物と同じく、種を撒(ま)いて、水やりをして、肥料をやって、あとは天任せの生き物だというふうに思っていたのであろう。成長に関与するファクターは日照も降雨も病虫害も台風も人為によっては統御できない。秋になっても、どんなものが収穫されるか予測がつかない。だから、茫洋(ぼうよう)としてとらえどころのない子について大人たちはしばしば「大器晩成」という定型句を口にした。そういう言葉づかいが選好されたのは、子どもの生育過程を大人は完全に統御することはできないという涼しい無力感があったからであろう。