江戸に政治の中心を置いた徳川家康は、江戸の町の整備に力を注いだ。特に河川の付け替えや街道の整備は時間と資金をかけて大々的に行なっている。中でも幕末に日本を訪れた外国人たちを驚かせた道路の立派さは、大名の参勤交代の需要もあって、道幅や設置する設備なども幕府から指示が出され整備・維持された結果といえよう。
●日本橋を基点とした五街道を整備した幕府
律令時代よりあった東海道の整備はもとより、東山道を活用し拡充した中山道に加え、家康の霊廟であった日光までを結ぶ日光街道、のちには箱館まで至る奥州街道、そして江戸城が襲撃された折の脱出路として作られたと言われる甲州街道の五街道が、幕府から基幹街道として定められた。これら五街道の出発点はいずれも日本橋で、現在の日本橋にかかる銘板の文字は15代将軍・徳川慶喜の手によるものだ。江戸時代にこの橋が日本の中心だったことの表れでもあろう。
●江戸六地蔵の誕生
もちろんこの他にも主要街道は整備され続け、江戸時代の物流を支えていたのである。このような時代背景の中、街道を守護する仏さまを奉納する人物が現れた。深川に住む正元というお坊さまが、地蔵菩薩への病気平癒がかなったことから、街道入り口に地蔵菩薩を建立することを発願、14年をかけて六体のお地蔵さまを奉納した。
●モチーフは京都六地蔵
ちなみにこれは京都六地蔵を模してのことだという。京都六地蔵は、平安時代の貴族・小野篁が彫ったとされる地蔵菩薩を、疫病対策として平清盛が街道口に建てた六角堂に置いたものと伝わっている。こちらは奈良街道、大坂街道、丹波街道、周山街道、鞍馬街道、東海道の守護となる。蛇足ではあるが、小野篁は昼は朝廷で働き、夜は地獄で閻魔大王の仕事を手伝っていたという伝説を持つ。地獄に落ちた人の魂を救う仏である地蔵菩薩とは、縁の深い人物といえよう。
●3メートル近い大きな露仏
さて、江戸六地蔵と呼ばれたこれらのお地蔵さまは、京都のそれとは異なり、銅製(当初はメッキされていたらしい)の、高さ270センチ前後の大きな仏さまである。また、いずれも露仏で境内(品川寺に至っては山門外)に鎮座している。最初に作られたのは、東海道沿いに建立された品川宿にある品川寺(ほんせんじ)で、宝永5(1708)年のこと。品川宿は日本橋から2里(約8キロ)で、最初の宿場にあたる。