
●新しい宿場にもしっかり建立
次いで奥州街道の最初の宿場・千住宿の手前、山谷とよばれた寺町にある東禅寺に宝永7(1710)年に地蔵菩薩は建立された。現在の地図ではわかりにくいが、江戸時代の切絵図を見ると千住大橋に向かう道沿いでは最後のお寺である。3番目に地蔵が建立されたのは、甲州街道最初の宿場・内藤新宿にある太宗寺で、正徳2(1712)年のこと。当初、甲州街道最初の宿場は高井戸宿だったのだが、日本橋から4里は遠すぎると元禄6(1699)年に商人たちの請願によって新たに開かれたばかりの宿場でもあった。
●4体で五街道が網羅され
4番目は中山道の最初の宿場・板橋宿への入り口となる巣鴨のお寺・真性寺に正徳4(1714)年に建立されたお地蔵さまになる。ここまでは2年ごとにお地蔵さまは開眼し、五街道のうちの4つの街道沿いの守護を担った。
ところで、五街道のうちの日光街道は日本橋を出てから宇都宮宿までは奥州街道と道を同じくする。つまり、ここまでの4体のお地蔵さまだけで、五街道は守護してしまったのである。
●残りの2体が意味するものは
ここからは私の想像も入るのだが、六地蔵にするためにはどこかにあと2体を奉納する必要があった。このため、深川の霊巌寺に水戸街道の守護として、同じく深川の永代寺に千葉街道(房州道)の守護という名目でお地蔵さまがそれぞれ、享保2(1717)年、享保5(1720)年に建立されるのである。
ちなみに、水戸街道は千住宿までは日光街道と重複(もちろん千住までの道筋に決まりはないが)、房州道はそもそも起点が日本橋ではないし深川よりももっと先になる。
●深川に鎮座した2体のお地蔵さま
建立された年代もそれまでの2年ごとよりも間隔が空いていて、霊巌寺と永代寺のお地蔵さまはそもそも街道とは関係なく、正元の地元の大寺に奉納されたお地蔵さまではなかったかと疑っている。
最初の4体は最初の宿場に関係し、日本橋から6~8キロの距離に置かれているのに対し、のちの2体は日本橋からの距離も3キロ弱、1里塚にすら到達しない位置にあるのだ。しかも、千葉街道という名は明治時代に生まれた名で、江戸時代ならば大山街道(現在の246号)などの方がまだ知られた街道である。
●巡拝の楽しみとは
それでも、江戸時代にはこの六地蔵の巡拝が流行した。徒歩では1日で巡るのは難しかったろうが、どこも江戸の中心から最初の宿場(深川は除く)である。ちょっとした小旅行気分も味わえただろう。品川・内藤新宿・千住・板橋の各宿場は、江戸四宿とも呼ばれ、最大規模を誇った千住宿には1万人近い人が住んでいた。そして四宿には遊郭(岡場所)もあり、街道宿場としての役割以上のにぎわいをみせている。
残念ながら、最後に建立された永代寺のお地蔵さまは、明治時代の神仏分離令による廃仏運動の最中に廃寺となり、仏像も取り壊されている。現在、江戸六地蔵は5体と1つの跡碑をめぐる旅となってしまった。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)