だが、日本ハム、大洋との3球団による抽選は、木田が唯一希望していなかった日本ハムが引き当てるという皮肉な結果に。最終的に「在京のセという希望の半分、在京だけは叶えられたんですからね」と自身を納得させて日本ハム入りした木田は、1年目に22勝8敗4セーブとブレイクし、投手部門のタイトルを総なめ。もし、巨人入りしていたら、16勝を挙げた江川卓とダブルエースとしてV争いに貢献していたはずで、その結果、80年オフの長嶋茂雄監督解任もなかったかもしれない。

 ドラフト2位ながら、巨人が“未来のスター”を逃したのが、83年だ。

 1位で「巨人以外なら進学」と訴えたセンバツV腕・水野雄仁(池田)の一本釣りに成功した巨人は、2位で超高校級の内野手・池山隆寛(市尼崎)を指名し、ヤクルトと競合した。

 内心「巨人よ、来い来い」と憧れの球団の指名を熱望していた池山は、2位指名でもうれしさに変わりはなく、昼食後、トイレに立った。

「“巨人が来た”ってんで緊張しとったんやろね。で、帰ってきたら、ウンが流れとった。“イケ!ヤクルトやぞ”。ガクーッ」(「プロ野球ドラフト史1998年度版」ベースボールマガジン社)。

 当時のヤクルトは“黄金の左”の異名をとった相馬和夫球団社長がくじ引きで連戦連勝。1位の高野光(東海大)も4分の1の確率を制したばかりとあって、ヤクルトと競合した時点で、巨人も運が流れていたのかもしれない。

 また、池山が巨人に入団していたら、ホームランか三振かという大味な打撃スタイルが受け入れられなかった可能性が強く、後の“ブンブン丸”もなかった?

 その後も、巨人は阿波野秀幸(86年)、川崎憲次郎(88年)、若田部健一(91年)の抽選に敗れ、95年にも「巨人と中日以外は社会人」と逆指名した福留孝介(PL学園)を7球団とのくじ引きの末、逃している。

 意外なところでは、90年に矢野輝弘(東北福祉大)を2位指名して、中日に抽選負け。後の阪神監督が巨人入りしていたら、どんな野球人生を歩んでいたかも興味深い。

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