昨年11月9日に心不全のため99歳で亡くなった作家・瀬戸内寂聴さんのお別れの会が7月26日、東京・内幸町の帝国ホテルで行われ、287人が参列した。
瀬戸内寂聴さんは亡くなる直前まで、横尾忠則さんとの往復書簡「老親友のナイショ文」(週刊朝日)をはじめ5本の連載を持ち、最後までペンを持ち続けた。
この日の祭壇は昨年12月9日、京都・嵯峨野の寂庵での偲ぶ会でも使われた4色のアナスタシアを主体に、遺影を囲むように、大好きだった黄色のバラとコチョウランを配し、遺影は、19年10月に篠山紀信さんが撮影したものである。
まず、作家の林真理子さんが献杯の際、こうスピーチした。
「先生があちらに行って早いもので8カ月。今でも京都に行くと、先生のことを思い出します。お話しするのが本当に楽しかったです。中にはかなりのホラもありました。私が『本当ですか?』と申し上げると、『本当に本当よ』って甲高い声でおっしゃいましたが、ある作家と女優さんのことをおっしゃった時は、その女優さんが怒って、寂聴さんご本人に注意したと聞いています」
さらに、こう続けた。
「先生は『真理子さん、作家というのは死んだら、次の年には本棚から消えて忘れられるものなの。作家ってそんなものなの』と何度もお話しされました」
でも、それはでたらめで、今、寂聴さんの本が売れて、ドキュメンタリー映画が作られ、そして先生の展覧会にはたくさんの人が足を運び、また寂聴ブームが起こっている。
「私は、あの世でお目にかかることがあったなら、『先生、あの先生の言ったあの言葉はホラでした。違いました』と申し上げたいと思っています」
寂聴さんに手料理を振る舞うこともあったという島田雅彦さん。
「寂聴さんとは40歳ほどの年齢差がありましたが、親しみを込めてひそかに『ジャッキー』と呼ばせていただいておりました」
寂庵で鍋をつくるため、京都の錦市場であんこうを仕入れたとき、寂聴さんと腕を組んでまるでデートのように歩いていたが、遠くから合掌している人がいて、そのときに、活仏とデートしている気になった。活仏なので、ある種、生死を超越したところがあったと思い、寂聴さんの言動を思い出すと、清少納言や紫式部とほぼ同時代のようにお話をしているかのようなところもあったそうだ。