更新修繕で外板を張替え中の6000型。番号が不詳だったが、窓上帯の形状と更新施行年度から日本建鉄製の6045号と推察した。(撮影/諸河久:1964年1月15日)
更新修繕で外板を張替え中の6000型。番号が不詳だったが、窓上帯の形状と更新施行年度から日本建鉄製の6045号と推察した。(撮影/諸河久:1964年1月15日)

 次の写真は更新修繕中の6000型で、車体外板をすべて張り替えるリニューアル工事が進捗していた。そのため車体番号が不詳だったが、窓上帯の形状から日本建鉄が1948年に製造した6045号と推察される。ちなみに、同車は1950年から1971年まで南千住車庫に配置され、南千住~新橋などを結ぶ22系統で活躍した。晩年は荒川車庫に転属し、1972年11月に退役している。

■広大な規模の芝浦工場

 掲載の図面は1961年当時の芝浦工場平面図で、敷地面積は60265平方メートル、建築総面積は20652平方メートルという広大な規模の修理工場だった。図面左端が正門に通じる船路橋で、その南詰め右側に守衛所があった。場内には車両移動用のトラバーサーが2基あり、1952年から営業を開始したトロリーバスの修繕も担当していた。

電車両工場平面図(「東京都交通局50年史:1961年刊」から転載)
電車両工場平面図(「東京都交通局50年史:1961年刊」から転載)
トラバーサーで移動中の入場都電。左側に芝浦工場内の入換牽引車工1型が見える。(撮影/諸河久:1967年3月21日)
トラバーサーで移動中の入場都電。左側に芝浦工場内の入換牽引車工1型が見える。(撮影/諸河久:1967年3月21日)

 写真はトラバーサーで移動される入場中の都電で、この7032号は荒川車庫に配置され、1970年1月まで稼働した。廃車後は函館市電に譲渡され、同市電1000型として函館の街でも活躍した。画面左端には工場内入換牽引車の工(こう)1型が写っている。芝浦工場内でしか見られない希少な都電車両で、その詳細は次号で紹介しよう。

■都電の新造や改造にも携わった

 芝浦工場は都電の検修や更新修繕ばかりではなく、新造や改造も手掛けている。大正期の400、4000型や戦前の1000型に始まり、戦後は6000型20両を筆頭に、7000型4両、2500型2両を製造している。

芝浦工場が1958年に試作したモノコック構造車体の2501号。車体側面の補強リブが特徴で、D10N台車はエリゴバネ付に改造されている。改軌工事を完了して三ノ輪車庫に保管中の撮影で、後部に2502も写っている。(撮影/諸河久:1964年3月13日)
芝浦工場が1958年に試作したモノコック構造車体の2501号。車体側面の補強リブが特徴で、D10N台車はエリゴバネ付に改造されている。改軌工事を完了して三ノ輪車庫に保管中の撮影で、後部に2502も写っている。(撮影/諸河久:1964年3月13日)

 写真は芝浦工場最後の新造車となった2500型で、1958年に2501、2502の2両が竣工した。車体はモノコック構造により約3トンの軽量化が図られ、車体剛性も向上している。軌間1067mmで敷設された杉並線の木造車両置換え用に投入された。杉並線廃止後は改軌工事を経て、1964年4月から荒川車庫に再配置され、後年荒川線となる27・32系統で使用された。晩年は早稲田車庫に転属したが、1968年9月に退役している。

 芝浦工場では車内混雑の緩和策として、小型ボギー車の車体を延伸する改造工事に着手している。

38系統(錦糸堀車庫前~日本橋)に充当された1300型は車体延伸改造のプロトタイプだった。南砂町三丁目 (撮影/諸河久:1965年12月9日)
38系統(錦糸堀車庫前~日本橋)に充当された1300型は車体延伸改造のプロトタイプだった。南砂町三丁目 (撮影/諸河久:1965年12月9日)

 最後の写真が1500型の原形となった試作改造の1300型1301号で、1955年に出場している。1933年製の旧1016号の側窓2個分を延伸。車体長は10mから11.62mとなり、定員は64名(座席定員16名)が96名(座席定員24名)に増加した。翌年改造された旧1104号の1302号と共に錦糸堀車庫に配置され、1967年に退役するまで終始江東地区で稼働した。ちなみに、1200型を同仕様に改造した1500型は、6年後の1961年に登場している。(次回に続く)

■撮影:1964年1月15日

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