その晩は、捜索のために泊まり込んでいた地元大町の公共の宿に、遺骨を連れ帰った。自分の寝相がちょっと気になったが、ベッドで一緒に眠ることにした。

■環境省への問い

 汐凪の命は、東京電力福島第一原発事故がなければ助かっていたかもしれない。2011年3月11日、津波が海沿いの自宅を襲った時、汐凪は木村の父と一緒だった。翌日、捜索の消防団員4人が男性のようなうめき声を聞いたと証言している。場所は、後に父の遺体が見つかる田んぼのそば。3月12日の時点で、2人は存命だった可能性がある。

 原発に爆発の危機が迫っていた。消防団員の仕事は捜索ではなく、住民の避難誘導に切り替わった。前日から捜索していた木村も、断腸の思いで周辺を離れた。

 事故で、原発から3キロの至近距離にある自宅周辺には大量の放射性物質が降り注いだ。捜索の再開は、冬まで待たなければならなかった。厳しい立ち入り制限の中、防護服を着て1人、通い始めた。

 何とか見つけ出したい。そんな木村の祈りを打ち砕きかねない話が持ち上がった。国が、除染作業で出る汚染土を集めて保管する「中間貯蔵施設」をここに造ると決めたのだ。予定地には木村の自宅跡地やその周辺が、すっぽり入った。

 まだ捜索の終わらない土地が、汐凪の体が、施設の下敷きにされてしまうのだろうか。木村は居ても立ってもいられず、2014年6月、郡山市で開かれた環境省の説明会に参加し、訴えた。

「私自身、土地を売るとか貸すとか、まったく今、考えられない。津波で家族が流されて、今も1人見つからない。ずっと探していくつもりです。そこが私にとって一番、(失った家族)3人とつながれる場所なんですね。それを人に手渡すというのはちょっと考えられない」

 マイクを持った環境省の職員は「本当に返す言葉もございません」「非常に心が痛む」などと言葉をつないだ後、こう漏らした。

「申し訳ございませんが、今そういうお話を初めて直接聞かせていただきまして」

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最低限、遺骨収容に配慮があるべきではないか…