安田は「人間ってすごい」と言った。多数派のエゴを少数派に押し付け、放射能汚染で遺骨も捜索できないような事態を引き起こしたのも人間。でも、その事態を乗り越えて遺骨を土中から救い出したのもまた、人間だった。
人と人のつながりは、時に奇跡を生む。最高の形で、それが証明された。
私がこの場に立ち会えたのも、安田とのつながりのおかげであった。沖縄、ヘイトスピーチなど、関心分野と取材現場が重なっていて、よく顔を合わせるようになった。そんな私に、具志堅の福島行きをセッティングした上で、同行を打診してくれたのだった。
仮にも取材者同士の間柄で、独占できるはずの取材機会を共有するというのは簡単なことではない。それなのに安田も佐藤も、ぜひ記事にして広めてほしい、楽しみにしている、と目を輝かせる。2人は、多様な視点を持ち寄ることの力、不条理をうがつ報道の力を信じている。
三浦英之もそうだった。福島の地方記者として1年で一番多忙な3月11日前後に私を受け入れ、木村をはじめ大切にしている取材相手を紹介してくれた。私が福島に通うきっかけは、三浦が作った。
その三浦が、帰省していた神奈川の実家から、遺骨収容の一行に合流した。安田や佐藤と初対面のあいさつを交わす。志がゆるやかにつながり、広がっていく。
翌4日の作業最終日は、みんなで土を掘り返し、雑草の根っこを引き抜いた。時々、思い出したように木村や具志堅にレンズを向けては、またスコップに持ち替えて黙々と作業する。ある意味で奇妙な、そしてずっと忘れないだろう取材現場。
大腿骨が見つかった後、3日間のうちで遺骨らしきものは見つからなかった。でもそれは、悲しむべきことではないのかもしれない。
木村は「楽しみができた。ここでゆっくり汐凪と向き合っていきます」と話した。春には若者たちを連れて沖縄に行き、具志堅の遺骨収容現場を訪ねようと計画している。
具志堅は、次にまとまった休みが取れるのはゴールデンウィークか、と考えを巡らせている。愛用のねじり鎌とスコップは、福島に置いてきた。
取材者の私たちもまた呼び合い、それぞれの現場を行き来するだろう。
ともに汗をかき、笑い、怒るだろう。