歌手の加藤登紀子さんは、1943年に旧満州のハルビンで生まれた。現地でロシア文化に魅せられた加藤さんの父は、引き揚げ後にロシア料理店「スンガリー」をオープン。加藤さん自身もたびたびロシアを訪れ、友好を深めてきた。ロシアがウクライナへの侵攻を続ける今、加藤さんの言葉には、この国を深く知るからこその悲しみと、痛烈な平和への思いがにじむ。
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──幼いころに触れたロシア文化の思い出は?
京都で台所もないちっちゃい家に住んでいたんですけど、誕生日は母の洋裁机を囲んで家族でペリメニ(ロシア風水餃子)を作りましたね。中学生のときに開店したスンガリーでは、ウクライナ系の人がたくさん働いていました。みんな音楽が大好きで、一緒にコーラスをしたり踊ったり。それが私の音楽の原点です。
──初めてソ連を訪れたのは24歳のときですね。
1968年に演奏旅行に行ったんです。レニングラード(現サンクトペテルブルク)は、ネヴァ川の岸辺にぶわーっと古い建物が立っている世にも美しい町でした。
笑い話があってね。中心街で遊んだあと、川を渡った外側にあるホテルに帰ってこようとしたら、船を通すために橋げたが上がってて帰れなくて。それでコンサートの主催者に、街のセンターのホテルに泊めてくださいって頼んだら、「(当時の)コスイギン首相が言っても空けられないくらい満室だ」って。
でもレニングラードのコンサートがすごく好評でアンコール公演を頼まれていたから、このホテルに泊まらせてくれたら引き受けるって交渉したら、何人かのロシア人を追い出して空けてくれた(笑)。音楽へのリスペクトが半端じゃない国だなと思いました。
モスクワで交流した在留邦人の新聞記者や駐在員は、行動制限があってモスクワから50キロ以内しか行けないのに、私たちは芸術家だから別扱いで全ソ連のなかの7都市に行けました。
──その後もたびたびソ連に足を運んだのですね。
91年の8月にウラジオストクでコンサートを計画していて下見も済んでいたんですけど、ゴルバチョフ旧ソ連大統領が(ヤナーエフ副大統領らに)拉致されるクーデターが起きてキャンセルになって。翌年行くと、そこはもうソ連ではなくロシアになっていました。
私がコンサートを開催したゴーリキー劇場はソ連時代、踊り子も女優も大道具や衣装の係もみんなお抱えの国家公務員でした。でもソ連が崩壊して、全員解雇されていた。最低限のスタッフを置いて、私営企業としての劇場になっていたわけです。ソ連からロシアへの転換を見たなと思いました。